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ぼんやりと特撮・アニメなど

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魔法つかいプリキュア! 第43話感想

アニメ感想 魔法つかいプリキュア

魔法つかいプリキュア!』の感想。

 扉をくぐって妖精ランドに来たみらいたち。すると突然、はーちゃんが小さな要請姿に。そこに現れた女王はチクルンを優しく抱き留めたのち、心配していたことを告げて頬をちくちく。

 チクルン行方不明はひとえにチクルンのサボり癖を原因とする事件だった(責は完全にチクルンにある)のですが、長い期間行方不明になっていた我が子が帰って来た時に、とりあえずはいきなり叱りつけるようなことはないだろうと納得はできるものの、後からいったいどんな苛烈なオシオキが待ち受けているのか。

 対応の仕方としては魔法界から初めて帰って来た時の朝日奈母と同じなので、作っている側としては「理想的な親の対応」のつもりかもしれませんが、チクルンもはーちゃんも女王も全く同じ種族と思えないぐらい見た目が違い(チクルンはモフルンを妖精と誤認していたりもする)、この後明かされる話を考えても彼女たちが同じ血を引く一家のような雰囲気には感じ取れないのですが、妖精の里はいったいどういうコミュニティを形成しているのでしょうか。

 他の妖精から「女王は毎日チクルンを探し回っていた」と説明されてますが、チクルン一人さえも我が子のように扱う狭い世界なのかと思えば、女王は何千年単位で生き、過去の代の女王も隠居してるだけで残ってたりとかするので、全然スケール感がつかめませんし、おかげで「女王=全ての妖精の親」と認識することができないのですが(^^;

 まあ、魔法界とナシマホウ界(ついでに人魚の海も)の描写ですら持て余している本作が、そんな細かい部分まで転がせるはずがないといえばそれまでですが。

 はーちゃんが妖精に戻った理由として、はーちゃんは「花の海」を思い出したことを述べ、それなら先々代の先々代女王であるレジェンド女王が知っているのではないかと紹介する女王。

 一方、リアンもまた校長と連絡を取り合っており、そこで魔法界の文字と同じ文字をナシマホウ界でも使っていたことが判明。……この辺に関する疑問は別の記事で書いたので、ここでは置いときます。

 そしてレジェンド女王から明かされる世界の真実。かつて人間も人魚も妖精も、一つの世界に住んでいた。その世界は一つの大樹があって、そこにおわすマザー・ラパーパの恵みを受ける楽園だった。

 ……にしてもこの花畑、以前はーちゃんが話した時も思いましたが、色のせいでどうにも前作終盤に出てきた「努力しないで咲く花」に見えてなりません(^^;

 前にも書きましたが、もう1年近く前のこととは言え、前作で否定した要素を肯定する印象になってしまうので、この絵面を被らせないようにする工夫が必要だった気がするのですが。

 前作の当該エピソードにおける「努力しないで咲く花は花じゃない」には、私個人としては引っかかるところはあるのですけど(『プリンセスプリキュア』としては「その花しか存在しないこと」の方が問題ではないかと思っているので)、全く同じ調子の花だけ広がる園を問答無用の「楽園」扱いされたって、首を傾げるばかりなのですが。

 マザー・ラパーパの祝福を受けて生きてきた人々とあらゆる命だが、そこにデウスマストが襲来。ラパーパは己の命を賭してデウスマストを太陽に追放し、その眷属を封印したが、それに伴い別の次元へと大樹は引き離され、そこに魔法界が形作られた……という。

 って、何故か語り方がナシマホウ界からの魔法界を語ったみたいな形になっているのですが、ますます妖精の里がどこにあるのか意味不明に(^^;

 レジェンド女王様、回想映像からしてそれを直接目撃した当事者なのに、なんでそこが混乱しているのでしょう。

 そして、ラパーパが去ったことそのものは彼女に瑕疵がないのですが、恵みは別の次元に送られて後には悪の眷属が封印されたまま、というナシマホウ界の設定の悲惨さ。

 それを特に考えることなく「ナシマホウ界と魔法界はもともと一つだった世界が分離したもの」という部分にだけピントを合わせてしまう本作、どこまでも視野が狭く感じます。

 またこの回想では、人魚が海に閉じ込められ妖精の里も実質鎖国状態であることについては何も理由が示されないのですが、ディストピアなのはラパーパ関係なく人間に問題があるのではないか。

 謎を解明したように見せかけて色々謎を呼んでしまった解説の後、闇魔法の本を開いていたオルーバが本の間にいた蜘蛛に魔法をかけることでスパルダ登場。

 ……バッティが拾ったときは掌ぐらいの大きさだった記憶なのですが、指先ぐらいのサイズしかないし、別の蜘蛛なのではなかろうか。

 本作、命とか意識とかの概念が曖昧なのですが、闇魔法連中は魔法の方に意識がある、って、ことで、いいのか……?

 スパルダは復活しようにも、退場までのキャラ造形も退場エピソードもまるで面白くなかったので、別にテンションは上がらないし、敵幹部退場直後に序盤退場の幹部復活って流れが前年度の戦隊の大惨事と丸被りで、悪い予感しかしません(^^;

 オルーバが闇魔法をテストしたいということで復活スパルダはヨクバールを呼び出して里を攻撃するが、阻止しようとするチクルン。しかし指先一つではじかれ、それを見て怒って元の人間の姿に戻るはーちゃん。

 印象最悪なチクルンに、一応自分の行いについての反省の言葉を述べさせたのは評価できますが、いつものたわごと界王拳ではーちゃんが元に戻ってしまうために妖精の姿に戻ってしまったという展開の意味が消え失せることに。

 そこまでして用意した怒りの展開に面白味があるならまだしも、本作の基本が「何でもいいから怒っておけば強くなる」にしか見えないこともあって、怒りに持っていく展開を作るべくチクルンを雑に転がしておいた、としか思えず、まるで盛り上がりません(^^;

 ヨクバールはリンカネーションで倒され、スパルダはあっさり虹の彼方へ飛ばされるが、戻ってきた蜘蛛に再び闇魔法を使われて復活、久々のオボエテーロで撤退するのであった。

 レジェンド女王はフェリーチェにラパーパの面影を見て、ラパーパが去り際に遺した言葉を伝える。

 「魔法は願い。奇跡を願う思いが繋がり、いつか世界に届いてくれるよう、祈りを込めて与えた魔法の名前……それがプリキュア

 というわけで本作における「プリキュア」の名前とその伝説に一応の理由づけがされることになりましたが、「プリキュア」は完全にマザー・ラパーパの意識の上に成り立っていたという結果に至ることで、ヤモーの主張していた「運命を変えうる力を持つ」って言葉が一気に白々しく。

 マザー・ラパーパが明らかに超越した存在(=神)として描写されている以上、それが未来に世界をつなげることを意図して用意したのがプリキュアであるならば、その存在そのものが運命の中で生きている(何を為すのも全て運命の上)としか考えられないのですが。

 ヤモーの件の言葉はもう、言わせてしまったことそのものが失敗ではあるのですが、結局こういうオチになってしまうあたり、まあ何も考えてなかったんだろうな、としか。

 

 さて、今回のエピソードで判明した魔法界とナシマホウ界の真相、そして「神」に近しい存在であるマザー・ラパーパの存在についてですが、ここについてはどうしても見過ごせない大きな問題があるため、まとめておきたいと思います。

 基本事項として、これまでの描写から『まほプリ』世界における「魔法」を使えるのは、妖精や人魚などの人外を除いた(つまり魔法界・ナシマホウ界共通に存在する「人間」)場合は、原則として「魔法の杖を杖の木から受け取れた者だけ」で、杖の木は太古のマザーラパーパとデウスマストの戦いによりナシマホウ界には存在しないことになっています。

 そして過去のエピソードや、今回の映像を見る限り、魔法の杖の木はマザーラパーパの祝福を受けて生まれた存在(というか「寄り代」なので「そのもの」と言い換えることも可能)であるというわけで、人間たちはこの杖の木を通して神(ラパーパ)の祝福を受け、恩恵を授かって生きることができる、というのが魔法界です

 こうして、「神の祝福」は『まほプリ』世界においては「魔法の杖」という視覚的に認識可能&物質的に存在して触れることが可能なものとして出ることになっているのですが、ナシマホウ界には杖の木が存在しないため、そういった「神の祝福」は絶対に現れないようになっています。

 ……問題はここから。

 その「神の祝福」――杖を授かって魔法が使えることについてなのですが、これまで43話分のエピソードを考える限り、その「魔法が使える」ということ自体の積極的なデメリットは何一つとして描写されていません。

 劇中では「魔法を使っているところを見られたら杖を没収する」という(ほぼ死んでいる)設定があるのですが、これは人間の間の取り決めに過ぎないし(それがどうして決められたのかも不明)、問題を「見られるかどうか」に置いているので「使えることそのもの」のデメリットを示しているわけではないことは明白です。

 もう一つ「魔法を使わないで努力した方が理解できる楽しみがある」も主張されているのですが、これも「使えること(能力)」ではなく「使うこと(行為)」に問題を置いており、現にみらいとリコはあえて魔法を封印することでその「楽しみ」を受け取ることに成功しているわけなのだから、これも積極的なデメリットではない。

 (むしろその話については、みらいの父の主張「あえて道具を使わない生活をすることで普段どれだけ恵まれているか実感できる」の方を正当なものとして見て、魔法に置き換えれば「あえて魔法を使えないことで魔法を使えるのがどれだけありがたいかわかる」となるので、やはり魔法=無条件の恵みになる)

 「魔法が使えることで生じるデメリット」というのは、例えば「使いすぎると寿命が縮む」とか「与えられた力はある目的にしか使えないし、使える者はそれに縛られる」といった形で、本来人間が有する機能や権利に何らかの制限をもたらすもののことを指すのですが、『まほプリ』の魔法にはそれが一切存在しません。

 つまり、この作品において「魔法が使える人間」というのは、「魔法が使えることによって得だけをして、何も損を被ることがない」わけですが、それはつまり、「魔法が使えない人間」と比較した時に「単純に上位互換の種族である」ということにしかならない、ということ。

 この両者を比較して「どこか優れているが別のどこかは劣っている」という比較ができないし、意味を為しません。文字通り「出来ることが絶対的に多い」以上「生物としてのランクが絶対的に一つ上」なのであるから。

 これにより、『まほプリ』世界は「魔法界の人間(+みらい)」と「ナシマホウ界の魔法が使えない人間」との間にどうしようもない溝を作り上げてしまっています。

 そして同時に、テレビの前の視聴者との間も、絶対に埋められない隔絶を作り出してしまいました。

 「魔法が使える権利」を与えられることは「絶対的な非の打ち所がない幸福」であるにも関わらず、「人間の意思が介在しない杖の木が選ぶか選ばないか」によって「その幸福が与えられるかどうか」が向こうの世界では決まってしまっており、そこからさらに絶対に杖の木が現れない我ら現実世界には「絶対の幸福」が存在しない、ということなのです。

 こうして『まほプリ』は「神に選ばれるかどうかで人間としてのランクアップが決まる」「しかしテレビの前の君らは絶対に選ばれない」という、2段階の絶望を我らに叩きつけてきました。

 スパルダが言った通り、「魔法が使えないってのは、惨めなもん」であることに一切の疑問の余地がありません。

 どだいアニメーションの時点で、現実ではないことは子供だってわかり切っている話であるのですが、それでもそこに書いてあることを読み取らせる=現実らしく見せるためにはどうするべきか、を考えていくのが物語を作ることであり、そういう説得力こそが物語の「リアリティ」であるはずです。

 (私は感想記事で何度も同様のことを書いてますが、言ってしまえばこれは「人をいかに騙すか」ということでもあるので、基本的に「子供だまし」というフレーズはなるべく批判や感想に使わないことにしています)

 しかし、『まほプリ』のリアリティが描いたのは「朝日奈みらいたち『は』幸福である」でしかない。

 しかも朝日奈みらい/キュアミラクルは「魔法が私に素敵な出会いをくれた」とその恩恵に自ら寄りかかっていることを肯定するばかりで、あまつさえピンチの時に「私にはまだ魔法がある!」とそのことをアイデンティティのようにさえ扱っている始末であり、自分以外の人間をどこまでも切り捨てる残酷極まりない話です。

 個人的に腹立たしいのが、この作品において自分と他者のつながりをもたらす存在がその「人間の意識や働きが介在しないものの力」である一方で、「その力は与えられる人間と与えられない人間が分けられている」こと。

 ちょっと話が飛んでしまいますが、仏教には「縁」というものがあります。

 (ここからは私の知識網の問題で浄土真宗の解釈をメインに扱ってますが、間違いがあるかもしれません(^^;)

 これは人と人とのつながりは自己の意識(自力)だけでは生まれず、自己の意識の介在しない他の存在(他力)によって生まれるというものです。

 おそらく『まほプリ』の「魔法」も、これまでのセリフから察するにこれに近い概念のつもりだったのでしょう。

 しかし、実態は全くもって別物と言わざるを得ない。

 浄土真宗であれば、「縁」をもたらす人間がこの世界に存在しているのは阿弥陀の慈悲によるとしているのですが、あくまで「縁」は個々人の動きによって発生した偶然がもたらす力であるので、「自力」ではないものの「人の意識が介在する余地がない」わけではありません。あくまで自己の意識で他人と世界を完全にコントロールすることはできない、というだけです。

 が、『まほプリ』の魔法には本当に「人の意識が介在する余地がない」。

 使えるか使えないかが根本的に「神が選ぶかどうかによって定められる」のだから、先の浄土真宗の考えならば「魔法が使える人間だけが、初めて阿弥陀如来の慈悲を受けられる」(あるいは慈悲を受けたものだから魔法を扱える人間として生を受けられた)と言うようなものです。

 だから、前回も書きましたが、結局この『まほプリ』世界は「神に選ばれた者しか赦されない世界」なのだと言わざるを得ません。

 そんな世界に、「自分は選ばれている」ことを理由に胡坐をかいて、目先の快楽ばかりに生きて、そのことには何一つ疑問を抱かず、選ばれないものを平然と踏みにじる連中というのがみらいたちなのですが、そんな人のどこに好感を抱けというのか?

 「色々な経験が魔法を成長させると思うの。漢字や化学式、魔法界にない科目もいっぱいあるけど、全部頑張りたい。無駄な努力なんてない。どんなことでも一生懸命頑張れば……きっと自分の力になる」

  とリコは14話で述べていますが、その理屈は「魔法」のことを上の仏教的な「縁」として話を進めるなら普遍的なテーマ・視聴者へのメッセージとして扱えるのですけど、結局のところリコもまた魔法の恩恵に授かった「神に選ばれた者」でしかない(しかも星が落ちた杖という、より特別な扱い)し、その成長は決して、画面を飛び越えて我々の前に影響を及ぼすだけの力に至ることはないのだと突きつけられたこととなって、ただの上っ面だけ保った綺麗ごとを述べたに過ぎないのだという事実を、改めて思い知らされた気分になりました。

 作っている側はあまりにも無自覚にこれをやってしまっている(自覚がある・故意とはさすがに思いたくない)のですが、1年間かけてこんな断絶を築き上げることになるとは予想ができませんでした。

 まあ、作り手も我らと同じ世界に生きている以上、『まほプリ』世界の感覚でいえば「選ばれていない」人間だろうと思ってしまえば、何とも滑稽な話ではありますが。

 

 えー……神の存在が明確になったところで、次回の『魔法つかいプリキュア!~炎の黙示録~』はさらなる闇魔法使い復活と、子供化でお送りいたします。ご期待ください。