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ぼんやりと特撮・アニメなど

特撮やアニメの感想を適当に投げるブログ つぶやき → https://twitter.com/wayohmugen 某mugen製作 →https://onedrive.live.com/?id=3AB66F1D6B2F66E4%21139&cid=3AB66F1D6B2F66E4

魔法つかいプリキュア! 第48話感想

魔法つかいプリキュア!』の感想。

 目を覚ますと、世界中に魔法使いが溢れ、魔法界の人とナシマホウ界の人が普通に交流している世界に代わっており、違和感を覚えるみらいたち。

 「うん、もうここまで押し寄せてる。混沌が……でも、止めてくれている。一生懸命に、世界が完全に飲み込まれるその手前で」

 みらいたちは箒を取り出し、校長の下へ。どうやら終わりなき混沌の存在により、世界が融合してしまったらしいという話を、受け入れる校長。そして現在、人々が融合してしまった世界を平然と受け入れているのは、ラパーパの加護によるものではないかと推測。

 そこに、光りはじめるリンクルスマホン。

 「聞こえる……スマホンに記された声」

 というわけで、はーちゃんを通じてデウスマストの成り立ちを解説。

 星の存在しない原初の世界から存在したデウスマストは、宇宙の誕生後にも残り続け、宇宙の中で無限の生命が誕生したことを知り、それを元の混沌に還そうとした。それをマザー・ラパーパが退け、太陽に押し込めたのだが、太陽を飲み込んで今復活の時を迎えたのだという。

 ……某所にて「身近な場所にビデオメッセージを隠して死ぬ親は基本的にクズ」という説を見たことがあるのですが、マザー・ラパーパ、完全にそのタイプ(笑)

 ここにきて、みかんや花に影響があったのはデウスマストが太陽を飲み込んだせいだから倒そうと考えるみらいだが、現在の世界は2つの世界を混沌による外部からの圧力で無理矢理混ぜようとしているものなので、もしもここでデウスマストを倒せば世界はより強く離れていき、2度とつながらなくなるかもしれない……と校長先生が推測。

 あのー、その説が通るのは「魔法界とナシマホウ界は互いに反発する力(斥力)を持っている」という前提が必要なのですが、ラパーパ伝説(生き証人付)を見るに魔法界とナシマホウ界ってもともと同じ世界が2つに分離したものなんですけど、斥力はいったいどこからどういう理屈で生まれてきたのでしょうか。

 長い年月を経て、互いの世界はそれぞれに大きく成長しているから、元の一つの世界に戻ると容量オーバーするとかそういう理屈なのかもしれませんが、全然そういう理由づけがないので、校長の推測がチンプンカンプンなことに(^^;

 というか、ラパーパは離れた2つの世界がいずれつながることを願ってプリキュアを生み出したはずなのですが、こうして世界がキャパオーバーする可能性とか全然考えてなかったのか。それとも考えていて、どこかで間引くつもりなのか。

 今回のエピソードで「どこかに消えたように見せかけて、実は木に宿る形でずっとこの世界に留まり続けていた」と明確にされたラパーパですが、中盤、ドクロクシー戦直前で杖の木が攻撃能力を見せていたことを考えるに、デウスマスト抜きで世界が融合したら、調和がとれるように皆平等に殺してさしあげた疑惑

 嗚呼、やはり杖の木ディストピア

 妄想はさておき、世界が融合して魔法を受け入れる人々に違和感を覚えていたみらい、世界が2度とつながらなくなる可能性を知ると動揺し始めるのですが、いったいこの子はどういう世界なら納得するのでしょうか。

 すみません、本作がここまで「かつて一つだった世界が分かれたこと」「それぞれ違う文化を作り上げたこと」「その世界が近づいてきたこと(と見せかけて片方から一方的に来てるだけであること)」について、この48話かけて全然向き合っているように感じられないので、今のプリキュア達が何を問題にしているのか、どこにピントを当てているのか理解できません。

 「世界が融合する」のがダメなのか、「世界が分離してしまう」のがダメなのか、いったいどっちだというのか。

 正直「世界の融合を成し遂げるのがデウスマストだからダメ、他の理由はない」に見えるのですが。

 で、デウスマストの何がどうしてダメなのかっていうと、「太陽を曇らせてみかんや花の育ちを悪くしたから」という即物的でちっぽけな話しか出してこず、混沌の何が悪なのか、そもそもこの作品における混沌というのはどういう意味なのか、そういった基本的なポイントさえ全然押さえられていないので、最終決戦の動機が「デウスマストは植物に迷惑だから追い払う」というとんでもなく矮小なものに。

 ちなみにこの、「悪のキーワードとして用意されている言葉に、作品なりの定義づけと説得力が持たせられていないので、善側の主張が宙に浮いてしまう」というのは本作前半の「闇の世界」と全く同じ失敗。

 いやもう、まったく反省の気配が見えなくて、あきれ果てるばかりです(^^;

 あと、太陽をデウスマストが飲み込んだから地上に影響が出たというのですが、太陽に追い込んだのはラパーパです。

 話が進めば進むほどに、ラパーパの各種言動に弁護の余地が無くなっていって、辛い。

 曇天の空を見つめる3人。

 「みんな、覚えてる? ずっと前にみんなで見た夕陽。とってもきれいだった」

 「はーちゃん……夕陽が沈んだら、みんなおうちに帰る時間。でも新しい朝が……明日が来れば……」

 「また会える。夕陽が綺麗なのは、そう信じてるから」

 「うん、どうなるかなんて、今は迷ってちゃダメ。取り戻さなくちゃ! 私たちの、みんなの夕陽!」

 前回から突然に「明日」が持ち出されるのですが、いやだから、「じゃあ誰が明日を保証するの?」って聞きたい。

 そうなると本作、どう見ても「誰も保証しませんよ」って話なのに、そこからするのが「だから私たちで作るんだ」じゃなくて「明日は理由抜きに必ず来るけどどうなるか考えてもわからないから今動くんだ」なのが、本当に怠惰で腐り切ってんなこいつら、って感じがします。

 いや「考えてもわからないから今動くんだ」は、「今必死にやっても明日が来るかどうかわからない」なら成立するけど、「明日は本来、必ず来るものです」と堂々宣言した上に叫んだらダメな言葉だろうと。

 これまでの彼女たちが「今」に実直に向き合い、真剣に生きてきたなら「明日はどうなるかわからない、でも今の先にある明日を信じて動く」と言いだすのに信頼がおけるのですが、全然そういう「今」を生き抜く実直さをここまでの彼女たちに感じ取れないので、やってくる彼女たちの「明日」というものに正直に信頼を置くことができず、故に「明日は絶対に来るとなんとなく信じている」彼女たちには全然、共感できません。

 何が杜撰かって、この最終段階でデウスマストを悪役として置くために一応「明日を奪う者」として着地させようとしているのですが、肝心のプリキュア達は「明日は何故来るのか」を今まで一度として考えたことがないため、「明日は来るったら来る」という他なく、そこに物語がまったく乗っていないというところ。

 みらいちゃん、それはね、単なる逃避よ!金元寿子の声で)

 そして、この最終局面においても決め台詞になると普段と全然別人の声がインストールされ、相変わらず山場の朝日奈みらい/キュアミラクルに当たりなし!

 基本的に「死ね」系の罵倒は感想に使いたくないと思っているのですが(その言葉を使うとそこで話が止まってしまって先に進まなくなるから)、流石に今回ばかりは本気で私、「くたばれ演技指導」とか思ってしまいました(^^;

 高橋李依さん、嫌いな声優ではないけれどものすごい好きな声優ってほどでもないのですが、さすがにここまで持ち味を殺されていると同情したくなります。

 年をまたいでいるとはいえ、2016年の間に2本も「作り手は役者に謝罪するべき」と思ってしまうようなアニメを見るとは思わなんだ(もう一本の『GATE』は問題の方向性がちょっと違いますが)。

 もうここからの運命も見えないので、自分たちにできることをやろうと、校長、世界中のテレビや鏡や氷に自分の映像を映す。

 すみません、映像がどうしても「悪の組織の宣戦布告」で、正直吹きました(笑)

 最終決戦に挑む、プリキュア達。

 「私の力はラパーパから受けついだものだけじゃない。皆がくれた優しさ、そして愛情……その全てが私の力!」

 え。

 いつの間に、フェリーチェの力の根源がそんなことに、というかアレを「優しさ」とか「愛情」とか呼んでいいのか。

 「本当はちょっぴり嬉しかった。2つの世界の皆が、あんなふうに仲良く笑顔でいられる世界。でも……」

 「それは、ただ待ってて手に入れられるものじゃないわ」

 え?

 あの、何のギャグなんでしょうか。

 「混ざりあって……」

 「一つになるだなんて……」

 「命の輝きは、それぞれ違う! 一つとして同じものはありません!」

 「性格も考え方も違って、喧嘩することもある! だけど!」

 「私は私で、その隣に誰かがいてくれる。それが何よりも素敵なの!」

 ……あのー、言っていることはわかるのですが、君らがそれを言えるのが意味わからん。

 この段階において「違い」や「個」を主張してもどうにもならないというか、私、これまで見たプリキュアシリーズで本作ほどに「個」の要素が薄っぺらい作品を見たことがないのですけど。

 だってみらいとリコが「喧嘩をする」とか「すれ違う」要素が描かれたのって、せいぜい補習編ぐらいなものですし、しかもその決着のほとんどが「結局みらいの言うような考えなしに動き出すのが正しかったんだ」みたいなオチにされていて、全然「違いの素敵さ」が生きていません。

 本当に「違いが素敵」なら、リコの主張であり拠り所である「努力と根性」は正当に評価されているはずなのですが、本作これまで嫌味かと言うほどに努力の描写は平然と踏みにじっており、努力が正当に実を結ぶ展開というものがなく、努力の本質を「それによって得たストレスの分、他の快楽が美しく見える」みたいな歪んだ扱いばかりしていて、全然リコの個性たるそれが「素敵なもの」とされていないのですが。

 むしろその部分、31話でリコはきちんと努力の末に冷凍ミカンの解凍を成功させたのに、それをリコ本人ではなく他人であるみらいの口から「みんなで食べるから美味しいんだ」とか言わせてしまうほどに、本作が「個」というものをいかに踏みにじっているかが現れているように思えます。

 そして、「違いが素敵」問題で最大のネックになるのは、朝日奈みらいという娘は他の人間と何が違うのでしょうか?

 言ってしまえば、みらいのキャラ造形って、現実的な視点で見たときの頭のおかしさを差し引いたとしても「好奇心は人一倍旺盛(かどうかさえ甚だ疑問)だが、自分の将来の目標などは見据えておらず、人と比べて特別得意なことも苦手なこともない」というもので、むしろ没個性の極致みたいな造形なのです。

 そんなみらいが、本作ここまでの48話間、自分の拠って立つところでありアイデンティティとしてきたことと思われる要素、それを指し示すセリフは「私にはまだ、魔法がある」だけ。

 その「魔法」、ナシマホウ界の人間のほとんどには使うことができない、神に選ばれた証左である一方で、本作世界では杖を与えられた魔法界の人間は誰でも使える物であり、その点でみらいの特有の個性と呼べるものではないという歪な設定なもので、故にみらいが選ばれし存在であるという唯一性を持ちながら、しかしそれが「朝日奈みらい」という個人の特性を指し示すものとは言えないという、非常に珍妙な話となっています。

 設定の詰め不足が原因ではあるのですが、なんにせよ杖は彼女の存在に対し、その意思と無関係に一方的に与えられるものであるという部分が変わらない以上は、朝日奈みらいというキャラクターには「自分の手でつかみ取った自分だけのもの」という要素は皆無、ということに何も疑問はありません。

 本作があちこち、その場の勢いで設定がふらついたりしてまるで座った話を展開してこなかったが故にこんなことになっているのですが、物語を積み重ねるのはそういう要素を詰めていくことにこそあるはずなのに、結局「朝日奈みらい」という個人を作り上げることすらできなかった。

 個人が成り立っていないのに、「個」や「違い」をいくら並べたところで、そこにリアリティ(説得力)が生まれるはずもありません。

 一見綺麗な言葉を並べているけれど、そこに朝日奈みらいの物語はまったく乗っていない。

 そんな綺麗な言葉の結果だけ並べるなら、一年間もアニメを放映する必要はありません。

 キュアミラクルが述べても、校長が述べても、教頭が述べても、あるいはここで突然バッティが飛び出してきて同じ言葉を述べたとしても、物語が乗っていない以上は言葉の重みは全く同じです。

 ここに並ぶ綺麗ごとは、『魔法つかいプリキュア!』の言葉じゃない。

 ……「結果が全て」という人はいますが、「過程」というのは「一つの結果を為すための要素」であると同時に「無数の結果の連続」でもあるので、過程をないがしろにするのは結果をないがしろにするのと同じことであり、須らくロクなコトになりません。

 もうとっくにあきらめもついているのですが、これまでの内容を一切顧みず、いかにも自分たちは努力したから今の自分たちと言う個人が成り立っているんだ! と言わんばかりのプリキュア達の姿は、画面の向こうの自分たちだけで勝手に納得して勝手に満足しているとしか思えず、こちらの世界に飛び越えてきて視聴者に影響を及ぼすだけの力など持ち合わせていない、と感じざるを得ませんでした。

 プリキュア達の言葉を受けて最後の2つ+エメラルドがミトメールし、次回、最終1話前で決着? えー、あと2話やんのか……。