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魔法つかいプリキュア! 第49話感想

魔法つかいプリキュア!』の感想。

 「感動なんてものは目の濁った大人がするもの」(by浦沢義雄)だそうですが、本作に全然感動を抱けないのは、私が目の透き通った子供だからなのか、それともこの作品には私を大人に変えてくれるような力がないからなのか、どっちなのだろう……。

  ついに全精霊のミトメールを受け、魔法陣が完成。

 「とびっきりの奇跡を!」

 「全てを照らす魔法を!」

 「そして、あたたかな幸せを!」

 「「「今、私たちの手で!」」」

 取り込もうとするデウスマスト(巨大な人型)に対し、巨大な拳を突き上げ現れる巨大フェリーチェ、そして二人でキックを繰り出すミラクルとマジカル(ルビー)。

 華麗な連携というか、フェリーチェが巨大な馬車を構える→ビームと共に飛び蹴りの二人なので、プリキュア二人がフェリーチェの鉄砲玉みたいな扱いに(^^;

 戦闘中にフォームチェンジを駆使して、フェリーチェを援護するプリキュア、トパーズで巨大モフルンを生み出して押しつぶす攻撃。

 「命の力、これほどか……」

 今押しつぶしたの(巨大モフルン)、動けるようになった無生物ですけどね。

 作り手はOPの演出に重ね合わせて伏線回収! と悦に入っているんじゃないかと疑いたくなりますが、セリフの内容と噛み合わないので「映像が重なっただけ」でしかなく、むしろ後の展開と合わせて話を余計に混沌とさせる材料にしかなっていません。

 空間に穴をあけ『出発のサイン』と共に現れるゴールドプラチナム巨大ドンヨクバールとなって、既に混沌となって命が混ざり切った大地(いつの間にそうなっているのかは、この際もう考えない)からエネルギーを得てそれでプリキュアを取り込もうとするデウスマスト。

 しかし、地上から光が迸る!

 「命の光。一つの大地からあふれ出たたくさんの命は、出会い、そして心をつなぐ。宝石のように固く結びついた命。そこから放たれる光は、いかなる災い、困難をもはねのけ、誰にも壊す事も、飲み込む事も出来はしない! その輝きこそが、エメラルド!」

 最終局面で、それぞれの命の力が逆転の鍵に、と話を持ってくるのですが、前回書いたように「個」という要素があまりにも薄っぺらい作品である(その要素が押し出されたのは、せいぜい45話のバッティぐらい)うえ、何度も書きますが本作における「命」という概念自体が曖昧すぎるせいで、全然説得力がありません

 「命はどうして尊くて大事なのか」をこの際捨て置くとしても、「そもそも命とは何か」と考えたときに、彼女たちはいったいどういう対応で向き合ってきたのか。

 ペガサスと花をヨクバールに変えたときに、ペガサスだけ分離したのを「命があるものはダメ」と吐き捨てたスパルダとか、エメラルドの力を取り込んで吸収するのが何故か植物のエネルギーだけで人々から力を吸い上げないドクロクシーとか、骨だけで動きながらも一応欲望と言葉を紡ぐ程度の意識は備えているドクロクシーに全くためらわず攻撃を繰り出して粉砕したプリキュアとか、デウスマスト眷属がどういう存在かろくすっぽ考えもしてないのに平気で虹の彼方に吹き飛ばして消し去るとか(前回で全員デウスマストの端末にすぎないと説明されますが、そんなことをプリキュア達が知る由もない)、モフルンとか石の精霊とか、兎に角「命」「心」「魂」というものに対する考え方と価値観が作品全体を通してふらつきまくっているので、「命は大事」とか「命は無限の可能性と力を持つ」とかいう綺麗ごとが何も中身を伴いません。

 もっと言ってしまえば、どうしてデウスマストは「命がないもの」であると断言できるのか。

 意思の存在・不存在を基準にして考えるなら、デウスマストは価値観が違うので『対話』は不可能ながら、プリキュア達の使う言語によって『意思の疎通』ができているのですが、果たして何を以てこのデウスマストは「命を有しないもの」とみなしたのか。

 本作ここまで「これがある者が命を宿すものである」という明確な基準は一切置かれていないのですが、しかし映像では実際デウスマストが見せていない光を地上の人々が発していて、それが何かと問えば「命である」と平気でフェリーチェは答えるけど、だけどその命って何なの? と聞くとその基準は無く、しかし映像では実際デウスマストが見せていない光を……という感じの無限ループに陥っており、すさまじく混沌とした展開に。

 「これが、私達みんなの奇跡!」

 「そして、私達みんなの魔法!」

 「祝福されし、あまねく生命! 全ての思いを今、光に!」

 キュアップ・ラパパ! 星々の果てまで! 混沌よ、あっちへ行きなさい!」

 最後の最後まで、敵を視界の外へと追いやることで徹底するプリキュア達。

 「全ては混沌から生まれた……ならば、あなたも飲み込むのではなく生み出す力を……」

 フェリーチェがこのセリフを述べることで一応のフォローは入るのですが、デウスマストがどうして生み出すのではなく飲み込む道を選んでしまったのか、それをどうして悪と認識するのか、どこまでもふらついた本作の価値観はデウスマストの存在を曖昧なものにしていくばかりでちっともいい話になりません。

 変身が解除され、さらに巨大な姿となったはーちゃんは、世界を手で包む。しかし世界には異変が起きていた。

 「世界は今、元の形に戻ろうとしてるの。魔法界とナシマホウ界、今はそれが自然な形だから

 あ、とうとう説明を放棄した。

 前回で、どうして魔法界とナシマホウ界が混ざると反発し合う前提になっているのか、そこの理由づけが一切行われもしなければ、その状況に至るまでに全然世界の実情を考えもしなかった彼女たちに首を傾げていた私、どうせ本作スタッフがまともに理屈をつけるとは思っていなかったですけど、一切を投げ捨てて「そういうものなんだから納得しろ」とド直球で叩きつけてきました。

 唖然で済まないレベルで、あきれるばかり(^^;

 姿を消すはーちゃん、離れていく魔法界に帰っていこうとするリコ、モフルンはみらいと共にいるから大丈夫と述べ、リコはかつてはーちゃんがやったようにみんなと一緒にいられる魔法をかける。

 映像と演出は気合が入りますが、どこまでもこの3人でしか転がらない話の矮小さはもちろんのことながら、「どうして別れなければならないのか」について先ほどの「それが自然な形だから」という説明放棄があるせいで、どう考えても全ては「別れても一つ」という外観を作ることと、今回のオチのための茶番です。

 酷いなあ。

 モフルンはまた、しゃべれないぬいぐるみに。そしてナシマホウ界に戻ったみらいは、リコとの思い出を回想。

 「ねえリコ。もし世界が、初めから一つのままだったら……私達、どうなってたかな?」

 「そうね……そんな世界でもきっと 、みらいはみらいね。明るくて、危なっかしくて」

 ……前回書いたように「朝日奈みらい」というキャラクターの個性さえズタズタなのですが、ここで持ち出す彼女を示す要素が「明るくて危なっかしい」しかないのも、ひどい話だ(^^;

 「リコは、魔法が苦手で?」

 この無神経っぷりは果てしなく「みらいらしい」ですが!(笑)

 もうやだ、こいつ(^^;

 「うん……それで無茶して、飛び出して……そしてやっぱりみらい、あなたと出会うの。モフルンと、はーちゃんともね」

 「もっと近くにいたかもしれない」

 「もっと遠くにいたかもしれない。でも、必ず出会った。私達の最初の出会い、それだけでも大きな奇跡なんだもの

 うーわー。

 「だったら、もう一度強い思いをこめて願えば、奇跡は起きる! また会える! 絶対会いに行く! 十六夜の夜に、ホウキに乗って……だから……またね!」

 うーわー。

 散々「たくさんの命の出会いが力になる」とか言っておきながら、結局君らは「神が会わせると決まっているから出会えるんだよ」なんですね。

 えー……このブログをご覧になっている皆さま、中でもプリキュアや他の特撮の感想をご覧になってくれている方々は、私の嗜好はわかっていると思いますが、基本的に私は「運命」とか「神」とか「天罰」とか、信じてないし、それによる人の行動の決定や制限を肯定する設定や展開が、好きではありません(笑)

 そういう好みを乗り越えて、作品としては面白いと思うものが稀にあることはあるのですが(最近だと『美少女戦士セーラームーンcrystal』の3期)、本作はとかく、セリフと設定の乖離っぷりがひどすぎて、セリフをまとめるたびに頭を抱えたくなります(^^;

 本作、最初から趣味に合わない作品だったと言えばそうなんですが、そういう世界観と設定の上に立っている歪みを一切是正するものがない(或るのは上っ面だけ、悪いことをしていないように取り繕おうとする誤魔化しだけ)ので、回が進めば進むほどぐっちゃぐちゃに。

 それから、季節は流れ、みらいは成長し、大学生に。

 大学の講義に出席し、中学の同級生との交流も続け、モフルンは喋らなくなったけど今でも大事に持っていて、夜中に自分の見てきたことを話し続けている、と展開。

 「もっと知りたいんだ。世界のワクワクを。そしていつか、話したいこといっぱいあるんだ」

 ここで「いつか会えるリコに、自分の学んできたことを伝えたいから勉強する」と目標が設定されたことで、最終回直前にしてやっと一歩前進。

 夜中にモフルンを持ち歩くのは一見危ない人なのですが、確かに動いてしゃべっていたモフルンを知っているのはみらいだけという事情に加え、普段から持ち歩きはするけど友人との会話時には隠しているなどの節度をわきまえた描写も入り、年数経過による変化を踏まえつつ、しかしみらいはモフルンの命を知っている(動けなくなっても信じている)から今でも内緒の話し相手としているという展開にすることで、今回の内容となんとかつなげました。

 肝心の「明日は何故来るのか」は放置されっぱなしなのでどうにも……なのですが、それを無視すればなんだか、苦節49話、ここで初めてみらいのことを劇作の登場人物としてちょっとだけマトモに見ることができた気がします(笑)。

 のですが、この後、そんな安堵を叩き潰す地獄絵図に。

 会いたいと願うみらいは公園の林を歩き続け、その先に杖の木のような捩じれた木を発見。そして杖のような小枝を拾い、ふと呪文を唱えるが何も起きず、帰ろうとする。

 しかし、祖母の言葉を思い出し、再び枝を拾って叫び続けるみらい。

 キュアップ・ラパパ! みんなに会いたい!」

 ひたすら連呼し、涙を流すみらい。

 えー……ほんのちょっとだけ期待したら、クライマックスで最低最悪の選択肢を選ぶ、恐るべし『まほプリ』クオリティ!!

 いや酷い、ほんとに酷い。

 よくもまあ、これを作品の決着に持ってこようと思えるものです(^^;

 何が酷いかって、本当にみらいがリコとの将来の再会を心から信じているのなら、呪文を唱える必要なんて全くないのです。

 仮にそれが天の呼んだ奇蹟であり、運命であったとして、最初からそうなると決まっているなら、呪文など唱えなくても会えるはずです

 何故、「キュアップ・ラパパ」の呪文が、今の彼女に必要なものであるというのか?

 今回の流れであるならば、例えば毎晩「キュアップ・ラパパ」を、いつか来る再会を信じた上でリコとの思い出を忘れないようにし、つながりを保つための合言葉として唱えているんだ、ならわかります。

 しかし、そうじゃなくて、「素直な言葉が奇跡を呼び起こす」という祖母の言葉の元、実際に今この場でリコと出会える奇跡を引き起こしたい、という意識を実現させるために呪文を繰り出してしまっている(この部分、一回諦めて帰ろうとしているのが、さらに悪質)。

 しかも魔法の呪文は、使う本人の努力がなければコントロールできないとしつつも、魔法の杖が与えられていない人間が扱っても効果を発揮しない、というものであるため、実質的に神の力を頼りに何かの現象を引き起こすものである、というのがここまでの内容から読み取れる話です。

 要するに、この場面のみらいは自らの意思と努力をもってして"奇跡(またはそれに代わる何か)を起こす"のではなく、"奇跡を引き起こしてもらう"ことを目的に神頼みをしている。

 主人公が最終盤にやる行動として、あんまりに情けなさ過ぎる。

 このシーンについて、自分の印象をざっくり言語にしたら「誤用の方の『他力本願』」です。

 何らかの存在による救済を信じているから、現世について自分でできることをしていく……のではなく、超常的な存在に現実的な痛みを取ってもらいたいがための、力への擦り寄り。

 見えない明日と不確実な今を生きる中、精神的な救済を求めて何かを信じる、というのは信仰というものの基本ですが、『まほプリ』における信心は「現世での出逢い」のように物質的な思考に走りすぎだし、そういう利益をもたらすための神頼みなので、どうにも受け付けません。

 そしてこの、物質的な救済を求めての神頼みという展開により、大学生みらいの設定の基本事項が完全に瓦解しました。

 せめてそれが別れて数か月とかで、まだ割り切るような年齢ではない、とかなら多少の同情もできるのですが、大学生まで年齢を進行させてしまったために、時を経てなおも心に迷いを抱いているみらいには単なる「まったく成長していない」という印象しか湧いてきません。

 またここで、将来の出会いを心の底から信じていないことが判明したために、そこを信じることが前提となっている「再会して話をするために勉強する」という要素とは真っ向から矛盾してしまっており、結局「朝日奈みらい」という人物の芯はズタズタとなってしまいました。

 そして追い討ちをかけるのが、中学生のみらいのアイデンティティとして示された事項が「私にはまだ、魔法がある」だけであることで、今その『魔法』というアイデンティティを奪われてなお、そこにすがることでしか活路を見いだせないみらいは過去から脱却できないまま身体だけ大きくなった、空虚で可哀想な人間という、悲惨な事態に。

 またこれは、中盤のみらいの決意――悲しいお別れはしたくない――も含めて考えるとさらにえげつない内容です。

 そのポイントから、みらいがいったい「お別れ」をどう消化したのか、というと

 「別れの悲しさも受け入れて飲み込む」(ちなみにこれをやったのは『Go!プリンセスプリキュア』)のでもなく、

 「別れが悲しくならないようにする」(これをやったのは『スマイルプリキュア!』)のでもなくて、

 「悲しくないお別れさえも受け入れられませんでした」という、あんまりな始末なのです。

 えー、前半部、異世界と別れを告げる展開に、Aパートを成長したみらいの「行ってきます」で締めるところに、個人的に好きなアニメ映画『星を追う子ども』(監督・脚本:新海誠/2011年)を思い出すのですが、別れを受け入れて今を生きることが作品テーマとして通された『星を追う子ども』とは、展開が完全に真逆で乾いた笑いが浮かびそうになります。

 『まほプリ』はつくづく、自分の好みとは逆方向を突っ走る作品であると思うのですが、ここまで自分の「好き」と重なった上でそれを雑に否定される話が展開され続けると、なんだか、本作は自分をピンポイントで殺そうとしてきてるのではないかとまで思ってしまうのですが(笑)(※そんなわけはない)

 今回のBパート、『スマイルプリキュア!』SDの大塚隆史さんがコンテを担当しているとのことですが、どうにも個性を発揮できているとは感じられないし(正直、エンドロールで名前見ても信じられないレベル)、この内容で本当に疑問を抱かなかったのかちょっと真剣に気になります(^^;

 原画にも歴代のシリーズで参加してきたベテランが多数名を連ね、豪華かつ作画の乱れもほぼなかったのですが、無駄遣いという言葉が頭に浮かんでなりません。

 唱え続けるみらい、すると突然体が宙に浮かび、空を割いて現れるカタツムリニア! モフルンを落としてしまうみらいだが、ホウキに乗った女性がモフルンを拾う。

 「ダメじゃない、気をつけなきゃ。モフルンは大切な友達でしょ?」

 再会を喜ぶ二人が抱き合い、モフルンは再び言葉を発するようになり、そこに姿の変わらないはーちゃんが現れて喜ぶ三人組で、次回に続く。

 ……なんかもう、既に虚無とかなんとかいう次元をいくつも通り越していますが、次回とうとう最終回か、と思うところで、やけに楽屋落ち的な次回予告。

 本来の視聴者がどうとか言うと、子供を盾にしているみたいでアレですが、この予告をいったい誰に向けて作ったのか、そしてこれで面白いものだと思ったのか、ずっと本作スタッフには信頼を置いていない私ですが、最後の最後まで抜かりなく酷いことをしてきて、頭を抱え続けています。

 ……本当になんか、本作は自分をピンポイントで殺そうと(以下略)

 まあ、最後だし、見るか……。