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ぼんやりと特撮・アニメなど

特撮やアニメの感想を適当に投げるブログ つぶやき → https://twitter.com/wayohmugen 某mugen製作 →https://onedrive.live.com/?id=3AB66F1D6B2F66E4%21139&cid=3AB66F1D6B2F66E4

魔法つかいプリキュア! 感想総括&反省会

アニメ感想 魔法つかいプリキュア

魔法つかいプリキュア!』の感想の総括。

 ざっくり言うなら、無神経かつ無責任な作品でした。

 世界観、各種設定、登場人物の描写、話の運び方、どこを取っても根本的に何かがおかしく、それが最後まで続いた作品。

 フォームチェンジや悪に征服されていない異世界など、一見は挑戦的な姿勢を見せていますが、それを踏まえた本作なりの組み立て方というものを一切講じておらず、ただ挑戦的なポーズを取っただけ。

 かといって従来のシリーズの形に収まるわけでもなく、とにかくセオリーは無視しまくり、その場の上っ面を綺麗に見せかけることばかり考えているような話の運び方を繰り返し、全体として筋が通らず、その場の都合でふらふらとあっちへ行ったりこっちへ行ったりを繰り返す、杜撰な内容。

 個人的に、本作を「失敗作」とは思っておりません。

 「成功」や「失敗」というのは、立てた目標に対し、自らの意志で動いて挑戦した、その先にある結果のことを指すものです。

 挑戦していない本作は、「失敗作」と呼ぶための最低条件さえ満たしていません。

 「試合に勝って勝負に負けた」という言葉がありますが、それ以前の問題です。

 

 問題点があまりにも多岐にわたる(そしてそれぞれが相互に作用することで大きな問題点となっている)ため、まとめるのも面倒くさくなったのですが、以下、まとめていきたいと思います。

 1.世界観(二つの世界の設定)

 本作が他のプリキュアシリーズと一線を画すポイントがこの「主人公が住む世界と別の世界があって、そちらの世界は悪に征服されず、普通に人が暮らしている」というもの。

 「征服されていない世界」「主人公はそちらで長期滞在と生活が可能である」というポイントが、主人公である朝日奈みらいがそちらの学校に通うという展開にすることで序盤では強調されていました。

 しかし、そういう展開を組んでおきながら、肝心の「魔法界」の描写が、はっきり言って稚拙。

 そこまでのみらいは、これまで全く魔法とは縁がなかった人間であるから、魔法そのものに驚くのは構わないのですが、それと同時に完全に異国、というか異次元の文化と交流するというものであることを失念しているかの如く、「魔法がある」以外の違いを劇的に強調するような描写をしませんでした。

 アイスドラゴンが凍らせるけれど実際に出てきているのはこちらの世界にもある冷凍みかんということや、カタツムリが引いているけれど列車である、など、魔法を使っているだけでこちらの世界の物品と同じものが出されている、ということを続けてしまったことが、かなりの痛手。

 そうではない、完全に「魔法界にしか存在しないもの」の描写になると、例えば紙を魔法で蝶にするとか、人魚の里で食べる実とかになるのですが、前者は何故かそれを平然と補習メイトが受け入れているのに「動けるようになった無生物」という条件では同じはずのモフルンにはやたら驚き、後者は人魚の里の存在自体が魔法学校の人間にとってもあまり知られていないものである、という内容にされたため、「みらいから見て不思議なこと」と「みらい以外から見て不思議なこと」の線引きを曖昧にしてしまっており、結果として「異世界ならではの驚き」という面がまったく強調できませんでした。

 第8話のペガサスになると、流石にそこだけはきちんと一致しましたが、話の主軸をそこに合わせないため、全く効果を発揮せず。

 こうして、みらいにとって、同時に視聴者にとっての魔法界という存在が、いかに現実以上の驚きに満ちている場所なのか、そういった面を一切示せないまま、みらいはナシマホウ界へと帰ってしまう……という最初の躓き。

 この部分は、以降のエピソードで魔法界を訪れるたびに、花火の花のような「魔法界にしか存在しないもの」を出してきたり、「魔法界のホウキやじゅうたんは野生動物を改良したもの」という説明を入れて特異性を見せてきたりと、若干の修正が図られた痕跡は垣間見えますが、連続して話を膨らませるような効果は出せず、またその時点で魔法界の設定以外にも様々な部分に歪さが行渡っており、完全に手遅れでした。

 補習編でそれができなかった時点で、対処は全て後手に回っており、どうにもならず。

 そして、帰還後のエピソードで明かされるのが、魔法界にはナシマホウ界のガイドブックが存在し、観光目的での来訪以外にも、実際にナシマホウ界にて暮らしている魔法界の人間もいるのだが、しかしナシマホウ界には魔法界のことを秘密にしているという、非常に歪な設定。

 明らかに魔法界とナシマホウ界の相互の交流ではなく、魔法界からのナシマホウ界に対する一方的な干渉であるのですが、その点で酷いのは、そんな一方的な干渉の理由と、魔法界を秘密にする理由が、一切、提示されませんでした。

 「魔法の世界を秘密にする」は、魔法少女もののお約束ではあるのですが、それを単に「お約束だから」で処理してしまい、本作なりの意味づけを一切行わなかったのは、雑という言葉で済まされるような内容ではありません。

 どうして、ナシマホウ界には魔法を隠さなければならなかったのか。

 どうして、ナシマホウ界の人間が単独で魔法界に来れないようにしているのか。

 仮に私がここで「ナシマホウ界の人間が魔法を見るとパニックを起こすから、それを避けるため」などとすれば話を通すことはできますが、そんなことをしてもそれは本編中に描写されてないことから私が勝手に妄想しただけでしかなく、それは作品の公式な設定でもなければ解釈による補完とも言えないわけです。

 もしも作り手が、そんな視聴者の「妄想」により描写されてないことを補完させようなどと考えているのであれば、それは視聴者の力を信頼しているのではなく、単なる物語の構成の放棄、丸投げです。

 そして、作品内ではそういった二つの世界の歪さに全然踏み込まないまま、何が原因かわからないけど二つの世界が近づいてきたことをみらいたちは喜びだし、そこから明かされるのが、本来二つの世界は一つであり、過去の戦いによって魔法界が異次元へと分かれてしまったことと、プリキュアの存在はその二つの世界を再度結ぶためにあるということ。

 それを知ったみらいたちは、そこについて何を思い何をしたのか、と言うと、翌週子供にされて校長を呼び、オルーバと戦って倒して、それからクリスマスに初詣を満喫、とそんな事情については何もしません。

 そうして、世界がつながること、その原因がデウスマストにあること、ラパーパの願いに反して無理矢理つなげられているのでデウスマストを倒せば離れていくこと……といった諸事情を全然考えていなかったために、48話にてみらいの理想がどちらにあるのかがまったく不明となることに。

 それから行き着くものを要約すると、「合体してる世界は一見楽しかったけど、自分たちがそうしたのでもないのに無理矢理くっつけたのなんてやっぱり間違いだから、離れ離れになってもデウスマストを倒す」という話なのですが、上の通り「考えてない」「動いてない」「何もしていない」今までの描写とは思いっきり矛盾した決意が飛び出す羽目に。

 みらいたちがまるっきり検討もしていなかった二つの世界の現状ですが、「二つの異なる世界が外部から無理矢理押さえつけられると、その外部の力が無くなった時により強く離れてしまう」という校長の説明(というか解釈)を48話で入れられるものの、元来一つの世界だった両者がどうして現在はすんなり融合できず、反発し合う力を持つようになっているのか、その点の理由を一切説明しません。

 マザー・ラパーパがプリキュアを生み出した理由なども考えれば、そこには何かしら理由・意味があってしかるべきであり、それは先ほどの「魔法界秘密のお約束」と同様に本作なりの理由づけを絶対に行うべきだったのですが、49話、その点について述べられたのは「今はそれが自然な状態」という、事実上の説明放棄でした。

 「何故、今はそれが自然な状態だということになっているのか」を説明しなければならないのに、一切無し。

 全体を通して、見せるべき事項と見せなくていい事項の選択を失敗しており、説明しなければならない部分に説明が入らず、逆に説明が入っている部分はそこから全く発展させない、という代物で、どういう組み立て方をしてこんなことになっていったのか。

 2.魔法の存在と、それに伴う「運命」「神(マザー・ラパーパ)」「朝日奈みらい」の扱いについて

 本作の一番のポイントである「魔法」。これも、全般に設定の練り不足と扱いの雑さが散見される内容。

 先ほどの世界観で述べた紙の蝶とモフルンもそうですが、「何もないところから何かを生み出す魔法なんて聞いたこともない」と言っておきながら後のエピソードでジュンが絵から彫刻を生み出したり、フランソワが道具を宙に浮かべて作業し、補習の中で水を操る魔法を扱っているのに「物を動かすのは高度な魔法」、作中の魔法で出来ること・できないことの線引きが話の都合でコロコロと変わりすぎており、非常に曖昧。

 「魔法は道具ではない」「エメラルドの力は清き心の人間にしか使えない」のような言葉は飛び出しますが、このように曖昧模糊とした内容のため、作中に出てきた「闇の魔法」「ムホー」および「はーちゃんの魔法(ラパーパの力)」はそれぞれが魔法とは違うものと示されながら、それぞれが何をどれだけできて、どんなことはやれないものなのか、仮にも善の力と悪の力、陰陽として描写しているのに、まるっきり明確ではありません。

 あえて言うなら、49話のフェリーチェのセリフなどから「ムホー=全てを飲み込んで強引に混ぜ合わせる力で、闇魔法はその劣化品」「ラパーパの力=命や存在を生み出す力で、魔法はその劣化品」という形で対になるのでしょうか。

 そう考えれば、「無から物を生み出す魔法は異常」という前提が成り立つのであれば、上位であるラパーパの力ではそれができるのも納得なのですけど、前提が成り立ってないのが問題ですし、またモフルンが動けるようになる(命を吹き込まれる)ことは作中で一貫して異常事態の扱いである、という怪奇現象のせいで意味がわかりません(^^;

 能力としての魔法そのものの扱いも曖昧ですが、非常にまずいのは「魔法が使える人間」というものは、いったい何を意味しているのかという部分が、これまた歪な組み方をされている、というところ。

 劇中で示されている描写では、人間である限りは生身で魔法を使える人というのが登場しておらず、魔法の杖を手にした人間のみが魔法を使える、という形になっています。

 その魔法の杖を手に入れる手段と言うのは、(ラパーパを受け継ぐはーちゃんはイレギュラーなので除外として)人の誕生に際して杖の木が落としたものを受け取る、というものしか描かれておりません。

 そして、魔法の杖の木は劇中の描写を見るに、マザー・ラパーパの寄り代またはラパーパそのものであるというわけで、人間たちはこの杖の木を通して神(ラパーパ)の祝福を受け、恩恵を授かって生きることができる、というのが魔法界ということになります。

 こうして、「神の祝福」は『まほプリ』世界においては「魔法の杖」という視覚的に認識可能&物質的に存在して触れることが可能なものとして出ることになっているのですが、最終回になるまでのナシマホウ界には杖の木が存在しないため、そういった「神の祝福」は絶対に現れない。

 そのうえで、魔法が使える人間と、魔法が使えない人間との差を考えると、それは間違いなく魔法が使える人間の方が上、ということになってしまっています(魔法は自発的に封印することが可能なので、魔法が使えない方が得られるものというのは魔法が使える人間でも享受可能であり、逆に魔法がないとできないことは魔法が使えない人間にはできないままであるから)。

 これにより、作中では神の施しと赦しは平等に受けられるものではなく、「受けられる者」と「受けられない者」が明確に分かれることになってしまいました。

 しかも、その受けられるかどうかの基準が人間側の努力や徳に寄るのでなく、完全に人間の意志と無関係に神が選ぶかどうかというものなので、神のお墨付きで人間の差別を肯定することになってしまっている。

 さらに、メタ的にテレビの前の視聴者は絶対に杖を受け取れないのだから、問答無用で被差別対象というのが、極めて悪質と言わざるを得ません。

 49話、魔法界とテレビの向こうのナシマホウ界は改めてつながりますが、向こうのナシマホウ界の人間すべてが杖を受け取って魔法を使えるようになっても、そこの問題は絶対に解消しません。

 その上さらにひどいのが、杖を持っている人間の中にも、本人の力に寄らないヒエラルキーが生まれていること。

 そして、それを作中で肯定することに何一つ疑問がないこと。

 第6話にて、リコは水を操る補習の中、強い思いから氷の魔法を使って補習の条件である「一定時間形を保たせる」をクリアするのですが、クリアの理由が「上級者でも難しい魔法を使ったから」と本旨から外れてしまっていて、しかもそんなことができる理由になるのが「リコの杖が落ちたときに、杖の木に星が落ちてきたから、その杖は特別なものでありリコの才能を証明しているはず」という話なので、ここのリコは己の力でなく、生まれの星の力に頼って困難を乗り越えた、という形になっています。

 それを、無条件で肯定してしまった上に、以降何一つフォローしなかった。

 これに限らず、みらいたちが受ける利益など、あらゆる物事について「運命」「試練」「奇跡」などの言葉が多用され、超常的な存在が与えたことに対して疑問を抱かないのですが、それを踏まえた上でみらいたちは「何もしない」。

 「リンクルストーンはみらいたちが持つ運命」とか「プリキュアの伝説」などの言葉が出ておきながら、そういった物事を自分たちで調べたり考えたりすることもなければ、「考えるより行動」とか言った翌週に「いきなり言われてもよくわからない」と実際はそれまでろくに行動していなかったのをセリフで表明してしまう、というおかしな話まで展開されていました。

 これらの運命観と、後述する周辺人物との関係の杜撰な内容から、終盤で連呼される「明日が来る」についても、「今を生きた先に明日が来る」ではなくて「明日は来ると運命で決まっているからなんとなく生きている」、と感じてしまいました。

 本作全般、「努力」という概念に対しては、作り手が悪意を抱いているのではないかと思うほどに否定的に描写されているのですが、自己の意識や計らいに根差す行動が徹底的に否定され、人の意識の全く介在しない「神の施し」に選ばれたことで起きた結果は完全に無条件で肯定される、というのはあまりにバランスが悪いというよりも、何故これに疑問を抱かなかったのか、本当に不思議でなりません。

 突き詰めると「選ばれなかったらクズ」なのですが、それ(しかも先に述べたように、現実的に杖の木がこの世界に現れる訳がない以上、作り手自身も誰一人として「選ばれた人間」にはなりえないわけでして)。

 実質的に「神」であるマザー・ラパーパを、明確に姿を持った・具現化できる存在として描いてしまい、それと意思の疎通が可能なようにしてしまい、杖の木という形で神の施しを具現化してしまった、というところに歪みの原因があるのですが、ここまで壊れているとささいなことに見えてきます(^^;

 そして、本作がその点で一番狂っているのは、そんな「神の施し」を、みらいは自分の個性や能力であるかのように扱ってしまう、というところ。

魔法が私に、たくさんの素敵な出会いをくれた。……私にはまだ、魔法がある!(第31話)

 ナシマホウ界の人間で魔法が使えることは作中では特異な話であるのですが、魔法界では普通のことであり、その点で上に書いた世界観設計の失敗が出てきてしまっているだけでなく、自分の力でも世界の人への信頼の象徴でもない、超常的な存在に問答無用で落とされた選民の証を、自分から全てを取り去った後に残った己の力のごとく扱って縋るなど、ヒーローとして以前に人間としての尊厳を疑うレベル。

 その狂気が大爆発したのが49話で、ナシマホウ界と魔法界が完全に分断され、みらいはリコが過去にかけた「魔法」を基に、再会を信じて自らの道を生きていく……と展開した先に用意されたのが、「素直な言葉が奇跡を起こす」という祖母の言葉を受けて、涙を流しながら呪文を連呼し始めるという残酷な始末。

 ここまでの「運命」「奇跡」をみらいが本当に信じており、将来リコに会うことができるのだと本気で思っているのであれば、今この場で少し寂しくなることはあっても何も言わずに乗り越えられるはずなのに、結局、呪文を唱えて奇跡が起きてもらうことに縋りつくという体たらく。

 49話の感想の時には、言葉が足りなくて誤解を招いたようなので改めて書きます。

 このシーンは、祖母の言葉を思い出して動いた、というプロセスを挟むために、「素直な言葉を繰り出すことで、今、奇跡を起こしたい」という意識の上に立った行動である、と言わざるを得ません(台詞の文面が「会いたい」でも、先の祖母の言葉の上で、今この場で涙を流しながら何度も唱えているというのは、それはタダの「会いたい」という意志表明ではなく、「会いたいから、奇跡を起こして会わせてください」のレトリックです)。

 そして、魔法は世界に対する信頼や明日への信心から生まれたものではないし、何よりここのみらいは「明日(未来)の再会を信じられないから、今ここで奇跡を起こそうとしている」のでしかなく、どこにも「人事を尽くして天命を待つ」要素なんてありません(本当に天命を待つのであれば、49話感想で私が書いたように普段から「キュアップ・ラパパ」と一人で唱えているもので、今この場で魔法を起こそうと唱えだすのは、天命を待ってられないからの悪足掻き)。

 そんなみらいの叫びの先に、本当に世界がつながってしまうのですが、究極的にはこれは「呪文を唱えたのが朝日奈みらいだから、神は世界を繋げてやったのだ」という話でしかないと。

 「理由はないが、朝日奈みらいは問答無用で許されている、それだけ」と。

 結局は、魔法の扱いのバランスを損ねたために、「朝日奈みらいは幸福になる運命でした」というだけの話でしかなくなってしまった。

 それは同時に、テレビの前の人間はみらいとは完全に別種の、選ばれていない残念な人間なんだ、という絶望を叩きつけるだけの結末でもありました。

 なおヤモーが途中、プリキュアについて「運命を変えるだけの力を持つ」とか言ってましたが、結局全部ラパーパの願い(≒運命)の通りみたいなものなので、完全にうそっぱちということに。これに関しては、運命至上主義が既に固まっている作品になりつつある状況で、「プリキュアが運命壊したってそういうものなんだから納得しろ」と言うための予防線でしかなく、以降全てを茶番に変えてしまいましたし、劇作の方法として最低と呼ぶ他無かったのですが。

 3.作中世界のルール・規律の設定

 世界観の設定にも関わりますが、不可解なのが、第11話で提示された「魔法を使っているところをナシマホウ界で目撃された場合、魔法界はその魔法使いの杖を没収する」というルールが、以降全く触れられなかったこと。

 いや根本的に、魔法によって社会の運営が成り立っている世界で杖を無くしたらどう生きていくのか不明だし、また杖は与えられた個人で形状が違うと説明されており、唯一無二のものと推測されているそれを奪うのは人権の剥奪(社会的な抹殺)に等しいレベルの行いなのですが、誰がどういう権限でそんなことができるのか、何故そういうルールが設定されているか、そういう話を全然展開せず。

 そればかりか「見られなければ使っても問題ない」という屁理屈で回避することを肯定してしまい、その後出てくるのが目撃しても身内なので無視するリズとか、平然と目撃されるような魔法の使い方をする魔法使い連中(補習メイト)という破綻っぷり。

 その破綻にさらに塗り重ねるのが、「魔法を使わないで努力した方が気づけるものがあるんだよ」という、論点ずらしの詭弁。

 一見努力を肯定していますが、魔法の発動自体は神の施しが必要ながら、安定したコントロールは努力が必要である=魔法は本来、努力抜きで使える物ではないことを無視しているし(と言っても、瞬間的に非常に優れた成果を出せる生まれの才能or運命>>>>>>>>>>安定してそこそこの結果を出せる努力、なので、本当に第6話の補習合格は魔法と努力の設定について最悪のガン(^^;)、「魔法を使わずに体にストレスをかけると、その分対価が美しく感じられる」というのは、要は努力そのものが美徳なのではなく、努力のマイナスで相対的に0をプラスにしちゃおう! という話で、どこまでも捩じれています。

 ていうかそれ、魔法なしで作業した後に牛乳がおいしくなかったら、やっぱり「努力なんて無駄だ」って話になるので、努力の素晴らしさを説く話としては最低の内容なのですが。

 そして、その話題が出てからというもの、パッタリと「見られなければいい」さえ消えてしまうのですが、この設定は根本的に何がやりたかったのでしょうか?

 繰り出してしまったからには責任を持って書かなければならなかったし、描けないなら用意するべきではなかったのですが。

 いっそ、杖没収は最初からなしにして、ナシマホウ界でルール無用に使いまくった結果トラブルを引き起こし、以降ルールとかではなく自粛、とした方がマシ。

 4.主人公を取り巻く人物の描写、それに伴う作中の倫理

 本作における育児の基本は、放置。

 人物の描写や広がりについては、まあみらい&リコ&モフルン&はーちゃんでさえマトモに転がせない(特に中盤以降、リコやはーちゃんが中心に来ると極端にみらいの出番が減る)のに、二つの世界&妖精&周辺の人物まで描けるはずないよな、とは思わんでもない(笑)

 基本的に、みらいの異常な言動が結果オーライにさえなってないのを、誰も問題にしないというのが厳しいのですが、改めて振り返ると、みらいが反省しないというか良いとか悪いとかさえ言わずにほったらかされるので、反省しようがないという話のようにも思えてきます。

 ハッキリ言って、みらいたちの言動がデタラメなことはきついのはきついのですが、むしろ周辺の大人が真っ当な責任感を抱いていなかったり、デタラメをやっているのを肯定されていることの方が、自分としては辛かった。

 回によって自分の責任でことを片づけようとしているのかプリキュアの運命として見守るのか安定しない上相談抜きの行動で周囲を惑わせるばかりの校長、ルールを押し付けながら目の前で破ったり本当に叱るべき場面と内容で叱らない教頭、妹の補習をデタラメな理由で合格させたり規則違反を無視したりするリズ、孫の異国旅行を自分が過去に魔法使いと出会った経験があるだけで事実上ろくに検討もせずに放置した朝日奈祖母、同様に娘を心配するポーズを取りながら肝心なところはほったらかしにしている朝日奈家の両親、研究者としては物語上で役立たずに近い扱いの上やはり娘の扱いは実質放置のリアン、地べたの宝石を飾りに使うなど料理研究家とは思えない蛮行に出たり娘に好きなものだけ与えることを愛情と思い込んでいるリリア……。

 各種行動のどれもこれもロクなもんじゃないし、あげくそれらの蛮行を「青春のひとときを守る」とか「運命」とかの言葉で正当化しようとばかりする、無責任の権化みたいな連中という感じで、どうしてここまでひどい描写ばかり重ねられたのか。

 そして、みらい&リコもはーちゃんという「子供」を抱えるにあたり、彼女に対する育児というものが描かれるようになるのですが、泣きながら謝り続けるはーちゃんをほったらかしたり、砂糖と塩を間違えたクッキーを「愛情があるから本当においしかったんだ」と論点ずらしから上っ面だけの愛情表現で誤魔化すなどの嫌な一貫性があり、本作の「大人」の扱いのズレっぷりが、本当に毎回辛かった。

 終盤、みらいたちは「明日」を連呼し、明日は来ると何の根拠もなく確信しているのですが、では誰が明日を作るのか? となると自分たちで作ると言うわけではなく、各種描写を見ても周りの人たちが作ると信じているんだ! という話に見えるようになっているのですけど、こんな連中が本当に「明日」を作ってくれるのですか?

 そして、君たちはそこにほったらかしにされるわけですが、安心して生きていけるの?

 「子供の意思を尊重する」「自己責任に任せる」ことと「放置する」こととを完全に履き違えているし、みらいたちも肝心なことを大人に相談しないで片づけようとするのは、彼らに対する信頼を抱いていないからではないのか、そんなことを想ったりする次第です。

 まあ第31話みたいに「校長先生に任せておけば」と信じたところで「動かない」のですが、みらいは。

 大人以外の周辺人物だと、勝木さんの扱いはもはや、これをギャグで通せると思っているのが本気で理解できない。

 何しろ、みらいたちが魔法を見られて困るのは杖が没収されるから(途中からこれも消え失せる)であるため、目撃者である勝木さんをパラノイア扱いすることで回避するのは単にみらいとリコが自分の罪を誤魔化そうとするクズになるだけでして、しかもそこでギャグにしているのはみらいたちのクズっぷりではなく、翻弄される勝木さんの間抜けっぷりであるのがもう、ヒーロー番組の組み方として異常としか。

 最終的に、元からパラノイアなんだから問題ないという論点ずらしで誤魔化すのも、不誠実極まりありませんでした。

 5.悪役について

 前半でいったん悪の組織が退場、後半で別の組織が登場、ですが、それが劇作の効果として有効に働きません。

 何故なら、組織が変わっても、プリキュア達がそのことに本気で取り合わないから。

 敵が変わっても「日常生活に邪魔だから追い返す」以外のことを何も考えないのが一貫しすぎているので、全然面白くならない、という(^^;

 キャラクターとしても、前半の闇魔法使いには一応それぞれに個性を持たせるように作ってはありましたが、描写の一貫性の無さが原因で、頭脳を使う設定のはずのスパルダがロクに知恵を発揮しないまま暴走して倒されたり、武人のはずのガメッツはやることが姑息すぎてそれっぽい格好しただけの残念な爬虫類でしかなかったり。

 闇魔法使いの一度目の退場劇は、どれもこれも大事故。

 交代したムホー使い(デウスマスト眷属)ですが、今度は向こうまで「プリキュアの考えることとかどうでもいい」という姿勢になるため、より一層衝突が起こらず、口調と見た目以外の個性も発揮されないので誰が出ても話の筋に影響がない、と輪をかけて残念な代物に(^^;

 デウスマスト眷属の割と無個性な感じは、最終的に全員端末だからで誤魔化しましたが、オルーバの上っ面だけ違う感じに作る→中身を詰められない→人格が崩壊したとでも考えないとつじつまの合わない発言連発、のコンボは、これまで私が見たヒーロー番組の悪役の顛末の中でも、指折りの大惨事だと思います(^^;

 両者に共通する問題点は、それぞれの目的と力に明確な定義づけをしないままで話を転がしたこと。

 プリキュア達が悪の存在に全然向き合わないのと、悪の組織の目的が疑似的に達成された世界が存在しないこと(過去のシリーズ作品では異世界が征服されていることでそれを見せていましたが、本作は魔法界が健在のため、そうなっていません)の合わせ技で、「闇に閉ざす」も「混沌」も、具体的にどれほど危ないことなのか、それを踏まえてプリキュア達が何を考えどう対応しようとするのか、そういう部分が詰められないまま話だけが勝手に転がり、何故か勝手に「自分たちの邪魔になる」以外の次元で悪認定されているという不思議な状態に。

 みらいがデウスマストを悪と認識したのは太陽を飲み込んだせいでミカンが育たなかったからなのは、本作がそういうシュールギャグ作品として出来が良ければ笑えたのですが、コメディとしての筋もズタズタなので、みらいの非常識さばかりが強調される羽目に(^^;

 6.「個」とは何か

 もう考えるのもバカバカしい領域なのですが、終盤で「違いが素敵」とか言い出したのは、ギャグのつもりなのかと言うレベルに説得力がありません。

 ただでさえ、みらいと対等な扱いで関係を築いている人間は少ないのですが、それぞれの違いを強調するエピソードというのが極端に少なく、そのうえで違っているから事態の打破ができたんだ、という結末に持っていくエピソードの類はほとんどありませんでした。

 というか何よりも、プリキュア組がナシマホウ界の人間と関わるエピソードになると、みらいはほとんど黙っていて動かないですし。

 みらいとリコが「喧嘩をする」とか「すれ違う」要素が描かれたのはせいぜい補習編ぐらいなものですし、しかもその決着のほとんどが「結局みらいの言うような考えなしに動き出すのが正しかった」というオチにされていて、全然「違いの素敵さ」が生きていません。

 本当に「違いが素敵」なら、リコの主張であり拠り所である「努力と根性」は正当に評価されているはずなのですが、先に述べたように嫌味かと言うほど「努力」は踏みにじられており、むしろその部分、31話でリコはきちんと努力の末に冷凍ミカンの解凍を成功させたのに、それをリコ本人ではなく他人であるみらいの口から「みんなで食べるから美味しいんだ」とか言わせてしまうほどに、本作が「個」というものをいかに踏みにじっているかが現れているように思えます。

 おまけに上記の魔法と神の設定のせいで、世界は完全に運命で支配されており、個の力で動かされているものではない、と考えられる構造になってしまっているのが、完全に衝突してしまっており、そこの擦り合わせはさっぱり行われておりません。

 45話のバッティが、オルーバの計画から脱却して勝利をするのは、本作が本当に序盤からそういう「個人の想いが世界を動かす」「違いが素敵」をきっちり固めていたのであれば、このクライマックスの布石にできたのですが、ラパーパの設定のせいで「操っているのがオルーバからラパーパに代わっただけ」にしか見えませんでしたし(^^;

 まあ何よりも、朝日奈みらいに個性がない、というのが最大の欠陥です。

 本当に最後まで「魔法がある」以外の特徴を与えられなかったし、故に「みらいだから」話を打破することに説得力を持たせられませんでした。

 7.本作世界における「命」という概念は何か

 キュアフェリーチェの象徴でもあり、序盤からセリフで存在だけはきちんと示され、最終盤でも取り上げられてきた「命」ですが、これも本当、定義の仕方が雑。

 本作なりの「命は何か」という定義を考える上で、一番の障害はモフルン。

 劇中ではみらいや周辺の大人に比べると、倫理的にも感情的にもそこまで異常な行動はとらないモフルンですが、「命とは」という部分においては本作最大のガンだと思います。

 モフルンは言わば、命を吹き込まれたぬいぐるみという位置づけではありますが、その「命が吹き込まれる」は、何を指しているものなのか。

 第36話と第49話を合わせるに、モフルンが喋れるようになったのは「みらいが色々なものを見せてくれたので、自分から何か伝えたいという心が芽生えた」「それがリコとみらいの出会いによって喋れるようになった」なのですが、すると「心」と「命」は別物であり、心があっても命がないものは動けない、と解釈すればいいのでしょうか。

 それでは、「心がある」とは何かという問題が生じてきますが、しゃべれるようになる・意思の疎通ができるだけでは心があるとみなせないのか、そういう要素についてはちっとも踏み込まれません。

 それとも、フェリーチェがヤモーに対して「清き心と熱き思いがなければエメラルドは使いこなせない」とか言っていたので、「清き心がないもの=動けようがなんだろうが命じゃない」なのでしょうか。すると悪党は動けようが人間だろうが問答無用で消し去れるのではないか。

 さすがにそれは考えたくないですが、「心」と「命」の問題は厄介な事例が他にもあります。植物はどうなのか? という話です。

 花とペガサスのヨクバールからペガサスだけ分離したことに「命があるものはダメ」と言いだすスパルダから、「本作世界では命と心は不可分で、花に心は無い、よって命もない」と読み取っていたのですが、しかしはーちゃんは魔法で花壇の植物に感謝の思いを表現させていたり、ドクロクシーが全世界の植物からだけエネルギーを吸い取って人間は無事だったりと、動植物の生命&心の概念まで回によってフラフラ描写が変わり、非常に曖昧な設定にされています。

 さらに問題になるのがドクロクシーで、「動けるようになった無生物(ぬいぐるみ)」であるモフルンに「命がある」と考えるなら、闇魔法にとりつかれて骨だけになっても、なお動いて内部に魂を宿していて意識もあるクシィ(ドクロクシー)の「命」を、否定する根拠が思いつきません

 「欲望だけだから心はない」と反論もできましょうが、「心がない=命がない」の図式が、曖昧な設定のせいで成り立っていませんし。

 そして、それをバラバラに分解して魂が飛んでいくところまで目撃した件について、私はこれ、プリキュアがその手でクシィを殺害したと解釈するしかないと思っているのですが。

 事実としてはともかく、これを「命がない」とみなす根拠があまりに薄すぎるので、これに対し「いきなり言われてもよくわからないけどはーちゃんを取り戻したい」から全力で徹底的に攻撃しているのは、明確な『殺意』の上の行動であり、そんな彼女たちが「命の力」をことさらに信じているのは、恐ろしいほど説得力がない(^^;

 おまけに第49話、死者であるはずのクシィの魂までプリキュアを支援し、最終回、クシィとドクロクシーの人格は完全に分離した上でクシィが生きていると思わせるようなシーンまで入っており、仮にも人間であるはずのクシィの命の扱いが一番雑なのは、どうしてなのか(というかこれ、「プリキュア達はクシィを殺していませんよ」という言い訳のための描写にさえ見えるのですが)。

 デウスマスト眷属も、一応デウスマストの端末ではありますが、そんなこと知る由もないはずのプリキュア達は普通に虹の彼方へ吹き飛ばして消し去っており、彼女たちがどこまで「命」を考えているのか。

 そして何よりも、デウスマストはどうして「命がない」という扱いなのか。

 意思の疎通はできるし、動くこともできるし、条件でいえばモフルンとさして変わらないはずなのですが。

 結局、49話まで「これがある者が命を宿すものである」という明確な基準は一切置かれていないのですが、しかし映像では実際デウスマストが見せていない光を地上の人々が発していて、それが何かと問えば「命である」と平気でフェリーチェは答えるけど、だけどその命って何なの? と聞くとその基準は無く、しかし映像では実際デウスマストが見せていない光を……という感じの無限ループが発生。

 「命は尊い」も、単なるきれいごとのマジックワードにしかなりませんでした。

 8.「明日」「未来」について

 ここまで述べた通り、「明日」「未来」を考えるにあたって、世界と主役との関係構築が杜撰なために、何を理由としているのかわからないが明日は来ると勝手に確信するプリキュア、という構図になっているのが考えるだけで目眩がしそうなのですが、「命」も合わせて「明日が来る」「未来がある」ことに、どういう向き合い方をしているのかというと、本作の描写が「未来が来る」ことを肯定的に捕らえているとは思えませんでした。

 第49話で失った魔法にみらいは縋り、最終回でみらいたちが若返ることに物語としての意味づけが行われなかったのもそうですが、最低なのは校長がいつまでたっても若い姿を保ち、クシィとの若き日の思い出に酔いしれ、未来の新たな校長の誕生に焦るという、あからさまに「昔の姿」に固執している人間として描写されていること。

 他の人物でも、みらいの祖母はそんな校長に昔出会ったことを引きずっているような描写が続いており(そもそもみらいの魔法学校補習を放置したのはそれが原因)、アイザック先生は入れ歯と勤続年数の曖昧さをギャグにし、朝日奈父は過去のみらいの記念写真をやたら眺めるという始末で、とかく「過去を飲みこむ」のではなく「過去に縛り付けられる」という格好の描写、そして今「老いている」ことは笑いものというのが貫かれています。

 最終盤の主題が「命」であるくせに、どうして避けられない「老い」や「大人になる」ことへ真剣に向き合おうとしないのか。

 本作のテーマが命でなかったなら、これらはさして問題でもなかったのでしょうが、命の尊さを主題にしてしまったためにさらなる地獄が展開されることに。

 9.全体的な、情報の扱いについて

 もうとにかく、作品全体を通して開示された設定や情報に従わない・視聴者の知らないうちに既知の事実として扱われている・逆に知っているはずの情報を完全に無かったことにしているなど、情報の扱いがとことん下手。

 杖没収ルールが最たるものでありますが、一番酷いのはみらいの記憶が信頼できないこと。

 21話分も戦闘を続けておきながら「伝説とか、闇の魔法とか、いきなり言われても私にはよくわからない」とか言い出したのは、耳か脳か性格のどれかが腐っているのではないかとか、本気で頭を抱えました(^^;

 その後もラブーが丁寧に説明したデウスマストのことも、しばらく後にきちんと目的まで含めてシャーキンスが説明した時には「デウスマスト……?」と今聞いたような反応を示していたり、「悲しいお別れはしたくない」とか言いながら面識のないクシィを思い出していたり(しかもそいつを殺したのは自分だろう!)、もうなんか、記憶を捏造することで感情をコントロールして戦闘力を高める魔法なのではないかとか疑ったのですが(笑)

 「本人が何らかの目的を持って隠しているわけではないのに、主人公の言動と記憶が一番信用できない情報源である」って、斬新すぎる。

 新手のミステリー小説ですか?

 ちなみに、同等の壊れ方をしていたのがオルーバで、闇魔法について研究していたクシィの本を奪い、その中身から使えそうなものを適当に試してプリキュア達の正体を暴こう、とやっておいて、その先にあったのは「実は闇魔法は自分のばら撒いた情報から計算通りに生まれたものだったんだよ」という、とんでもないちゃぶ台返し

 オルーバも人格が分裂していると思うレベルで言動がつながらない部分がままありましたが、最終的にこっちは混沌の眷属=デウスマストの端末なので、ごまかされた気分。

 

 以上、現時点で過去に書いた感想も含め、思いつく限りでまとめたのですが、あまりに問題点が広すぎるため、おそらくまだまだまとめ切れていません(^^;

 全般にわたって内容の壊れた作品ですが、その壊れた原因は結局のところ、

 用意すべき要素と外すべき要素の選択がロクにできなかった(無神経)

 ことと、

 作り手が自分たちで提示したルールに従わず、ルールを破っていない見た目ばかり作ろうとした(無責任)

 ことの二つで、おおまかにまとめられるのではないか、と。

 まるで、正しく甘えることを知らず、ロクに躾もされないまま、ほったらかしにされた子供。

 こうしてまとめると、怒りとか呆れとかもう通り越して、いっそ哀れな気分にさえなってきました。

 

 序盤の時点で自分の肌に合わないシリーズだろうな、と薄々感じてはいたものの、ドクロクシーとの対決あたりでスタッフへの不信感が決定的になり、それでも意地になって見続けましたが、結果としては最後まで批判・否定的な意見ばかり並べてしまう感想文となってしまいました。

 これまでにも感想を断念した作品が他になかったわけではありませんし、本作も本当は序盤で切るべきだったのかもしれませんが、それでも自分で選んだことだから、どんな汚い文章であろうとも最後まで書こうと思い、ここまで続けました。

 結果は言ってしまえば惨敗ですが、作品に負けたのではなく、不信感を抱きながら最後まで見るなんてことを決心した自分に負けたのだろう、と思います。

 来季のプリキュアは、きちんと信頼して見れる作品であることを願いたい。

 

 本当は、もっと彼女たちを、プリキュアを信じたかった。

 「朝日奈みらい」という娘のことを、信じてやりたかった。