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鉄血のオルフェンズ 40・41・42話感想

機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』の感想。

 正直に言って、この3話分の流れを楽しめているかと言うと、あまり楽しめておりません(^^;

 要所で見ると面白い部分はあったのですが、全体としてはどうにも乗れず、むしろ作品の構造などからだんだん欠点の方が目についてきたって印象。

 順番を整頓すると、イオクとジャスレイの策略により禁断兵器ダインスレイヴをもって虐殺されるタービンズ、名瀬とアミダの死により解散したタービンズから鉄華団(昭弘)との関係で揺れ動くも結局テイワズに戻ろうとした矢先にジャスレイの刺客に殺されるラフタ、それを受けてテイワズと縁を切ってジャスレイを抹殺し、いよいよ始まるギャラルホルンの革命に乗ろうとする鉄華団、という流れ。

 タービンズの成り立ちとかラフタと昭弘の交流とか、いかにもこれから死にますよって感じの見せ方をするのはどうかと思いつつも、何しろそれで死んでなくてもおかしくないのが本作なので、これは是非を言いにくいところ。

 そしてアミダ&名瀬はエピソードをバトルで思いっきり盛り上げて、その最高潮の場で劇的に死なせるのですが、ラフタはそれとは正反対にすっごくざっくりとあっけなく殺されるあたりが実にえげつなく、しかしこの三人とも、最後の一瞬に後悔とか全く抱かず(ラフタは抱く暇もなく)本人の脳内は幸福に満ちて笑っていたというのが、とことん凶悪。

 で、なんだかんだでそういう偶然性に支配されている空気を作り出しているのは本作の特徴であり、その部分を基にした世界観を守れれば何をやっても『鉄血』として成立できるようにしているのが本作の長所だと思っているのですが、そういう設計の作品は私が過去に見た作品を鑑みるに、よっぽどスラップスティックコメディとかでもない限りは長く続けると疲弊するしかないよなーと思わされる次第。

 これまで作品全体に刺激を与える要素としては「キャラの死」を頻繁に用いているわけですが、あまりに使いすぎているので3クール目を通り越すといい加減効果が薄れてきたのが見えてきています。

 では他にどんな方法で刺激を与えればいいのかって考えると、ロボットの役割が基本的に戦闘兵器で固定で、腐敗した公権力とアングラ組織の抗争という題材が世界観として組み込まれているために、投与できるカンフル剤が「キャラの死」以外に存在しないというジレンマ。

 理論上は無限に続けられるコンテンツであるのですが、それ故の問題点が思いっきり浮き彫りになってしまって対処しようがない状態になっている、というか。

 枠も無くなってしまうそうなので、この第2期でなんとか着地点ができればいいのですが、どうなることか。

 まあ、作品の問題点を抜きに面白かった要素を上げると、41話の三日月とアトラの会話。

 もうなんか、私は「アトラが出ればそれだけで何か面白いことが起こる」みたいな認識をしてしまっているのですが、名瀬の子供を見て「繋がり」を感じ取り、そこから直球でアトラに子供を作らないのか聞いた挙句「いたら面白そう」とか「俺とならいいの?」とか本当にさいてーだな三日月(^^;

 いや、三日月が最低野郎なのは知ってましたが、超好意的に解釈して、「アトラを繋げる人間はどういう人なのか気になる」という興味なのだと思いますけど。

 アトラ、三日月をどうにかこの世に残すことだけ考えていて、自分はそのためにどれだけ外道になろうと構わないみたいなところまで入り込んでますし(若干、脚本のメタな意図も混ざっている感じがしますが)。

 そしてこの、アトラと三日月の関係(アトラは三日月のために自分を残さず全部使い切るつもり)は、アミダの主張する「多くの女に愛を与えられる男は素晴らしいけど、女は一人だけ愛されることを望むことだってあるし、それを望むのはただの男じゃない」とは男女の関係が逆転しているように感じるのですが、そう考えるともしかしたらアトラ、三日月の性別にはあまりこだわりがない可能性もあるような気がしてきました(このエピソードでタービンズの子供の世話をするときに、おしめを替える子供が女の子であることにハッシュは戸惑うけど、アトラはなんとも思っていなかったりする)。

 いずれにせよ、三日月が無自覚に最低野郎の言動をしても作中で何も批判されないの、「向けている相手がアトラだから」に終始しているので、完全にアトラが男をダメにする女と化しているのですが、金元寿子だから仕方がない!

 まあそんな与太は置いといて、劇中ではガランの存在を突き止め、イオクの蛮行を責めるギャラルホルン改革派が動き出し、鉄華団もそれに乗ることに。

 革命の所信表明は「大きな権力に浸かる一部の腐った人間を一掃して、個別に立ちあがるときが来た」なのに、実際にマクギリスがやろうとしているのは「だから巨大な力でそれを吹っ飛ばして、その力に人々が導かれるようにする」な辺りが、酷くねじれています。

 いよいよテイワズとも縁を切り、アドモス商会とも取引を辞めて革命に参加し、その先にある火星の王の座こそ自分たちの目指す場所だ! と皆を奮い立たせたオルガ、三日月の前でだけ「本当は火星の王とかどうでもよくて、たどり着いた場所でみんなと笑えればいい」と明かす。

 流れはともかく、鉄華団が『家族』を絶ちきって新たな一歩を踏み出すところで、オルガの「本当になりたい自分」と「行きたい場所」が言葉を持って示されるのですが、逆に言えば、オルガは最後に笑ってさえいられれば、三日月と約束したあの子供の時と同じ場所で死んでいても構わなかったわけで、鉄華団とか家族とか大袈裟に言わなくてもいい話だったというのが、実に渋い。

 そんなオルガのセリフに、前述した三人の死に様(ついでに言えば、昌弘やフミタンも死の直前は穏やかに笑っている)が重ねられているのが、さらに凶悪なのですが。

 このオルガの本音の吐露、「自分と向き合って、自分の本当の意志を伝えられること」という点で1期最終回の戦闘終了の叫びと同じで、多分本作なりの「大人になった証拠」であると思うのですが、それを三日月だけにして他の人間に向けられないあたりが、微妙になり切れていないというか。

 色々間違えたかもしれないけど、回り回ってそこに気づけた、という話に持ってきたのは、割と私の好みなので、なんだか、このセリフだけでこの数話色々あったのを帳消しにしてもいいかもとか思ったり(笑)

 そしてオルガがそういう本音に気づけたのがどうしてかというと、名瀬の残したオルガに対する指摘が元なわけで、仇討ち含め名瀬が残した「繋がり」が実の子供以外にも及ぼしている影響、と見せてきたのも面白いところ。

 本作のテーマはずっと「人間からすべて奪ったときに何が残るのか」だと思う私ですが、その「何かを残す必要があるのか?」というところに対し、名瀬もアミダも「輝いていればいい」で何かを残そうという意識がないわけで、オルガに対する指摘もこれが自分の残すものだとか、多分意識していないと思います。

 しかし実際に、オルガと出会って及ぼした影響は生きている周囲の人間に及んでいるわけで、時が経って忘れ去られても、それは後にどこかで何かが動く原因となる。

 その部分について、42話では逆に「何も残さない生き方を選んだ男」であるところのガランが思い出され、その言葉を胸に昭弘は獣のごとく戦い、ギャラルホルン革命派は存在を突き止めてラスタルを糾弾しようとしたりと、結局は繋がりを断ち切ることができなかった、ということが明確にされていきます。

 どんな風に生きていようが、人間が生まれてこの世に存在した以上はどこかで何かと繋がることになり、他の何かをどこかで動かすことになっている、というのが本作の世界で、その結果動いたものばかりが連続しているのだろうな、と。

 それが果たして「残るもの」の答えでいいのかは、わかりませんが。

 最後は不穏な空気を漂わせるナレーションで締めるのですが、困ったことにオルガが自分の理想をここで明言したので(ひっくり返す可能性あるかもしれませんが)、客観的にどれだけ惨たらしく死んでもオルガは最後に笑えば自分だけハッピーエンドなため、あんまり不穏に感じられない(^^;

 残り話数も少なくなってきたので、革命編で最終章となりそうですが、どういう決着をつけるのか。……不安の方を膨らませて見ることにします(笑)