『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』の感想。
前回からの繋がりとか一気に省いて、開幕から回収されカルタ様生存。
えー、話に重要なのは「カルタが生きていること」であって、「どうやってあの状況から脱出できたのか」は必要ないと言えばないのですが、それにしてもバッサリ切り捨ててびっくりしました(^^;
島から脱出できたものの、ビスケットの死に暗く沈む鉄華団。オルガもまた、一人で落ち込んでいた。
ここでアトラが、涙を流しながらその場から離れていくのが気になったところ。一応これまでフミタンなど仲間の死はあったのですが、アトラはそれに直面しておらず(死の瞬間はもちろん死体も見ていない)、明確に「戦いの果ての人間の死」を見たのは、今回が初めてのはず。
地球編では魚を食べる件、三日月の姿勢に対するアトラの不安げな表情など、「戦いにおける殺し」と「食べるための殺し」を対にしていく方針が見えるのですが、三日月が魚を拒絶したようにアトラがビスケットの死を拒絶していく、ということでまたも示されました。
ビスケットの死はそれ以外にも話の上で様々な意味を持つのですが、「死」そのものが一番重視されているのはおそらくこのアトラの対応にあるかと。
鉄華団脱出を受けて、指示を出すマクギリス。
「やってくれる。それにしてもまだ生きていたとは、カルタもしぶといな。ここらで死んでいれば、これ以上生き恥をさらさずに済んだものを」
えげつない台詞をさらっと吐くチョコの男。
これまでの名有り人物の死亡描写を踏まえて「『鉄血』世界で命や人の死は等価値ではない」という感想を他所で拝見したのですが(三日月の食への対応や「宇宙鼠」「ヒューマンデブリ」などの存在を考えると、的を得た指摘だと思います)、多分一番「命」と「死」に公平に接しているのはマクギリスじゃないでしょうか。
というか彼は複雑な生い立ちを持つブルジョワ階級なので、望むものをある程度得ているために人生観とか色々突き抜けてしまっていて、虚無というか退廃的というか、かなり離れた位置から物事を眺めている(つもりになっている)様子ではありますが。
鉄華団やギャラルホルンの面々が「理想の生き方」を追い求める一方で、マクギリスは「理想の死に様」を追い求めているとも取れるのですが、毎度この男は曖昧に濁して語るので、どこまで信用していいか視聴者的にもよくわかりません(^^; 多分、それも計算の上で作られたキャラだと思いますけど。
そのころ、蒔苗氏の身柄を抑えることに失敗した対立候補とファリドおじさんは悔しがっていた。追撃を考えるカルタも指示に従い引き下がることに。
なんだか、カルタには愛着ないのですけど、今回生き延びてしまったからには行き恥をさらし続けるというか、最後まで生き延びてほしいって思いの方が強くなりました(笑)
考えて見たら金元寿子主演作品の井上喜久子キャラって、大体救われたり変化したりして最後まで生き延びる人ですし!
与太は置いといて、ガエリオはマクギリスと再会、アインの処遇について話す中で、阿頼耶識システムとギャラルホルンの成り立ちについて説明。
阿頼耶識システムは、戦争を終わらせるためにより強い力の存在を求めた人類が生み出したものであり、それを最大限発揮できるモビルスーツとして作られたのが「ガンダム」シリーズであった。そして戦争を終結させた人々が築き上げたのが今のギャラルホルンの始祖であるが、時の流れで阿頼耶識は嫌悪の対象となり、ギャラルホルンは権力抗争の場となり果てていった。
ある程度予想は付いてましたが、端的に言えば神を作るシステムというのが阿頼耶識の正体でした、という。
「阿頼耶識」の語源と唯識から考えるとさらにその先がありそうですが、これが最後に発揮されるのかどうか。単に仏教用語から取っただけで深い意味とかない、という可能性もありますが。
そしてカルタの鉄華団追撃失敗と、それが衛星監視網を逃れ続けているという話に。
「おそらくこちらの内部に情報提供者がいるんだろう。腐敗ここに極まれりさ」
なんかもう、マクギリスが口を開くたびに画面に向かって「コノヤロウ」とツッコミ入れてしまうのですが(笑)
マクギリスは最近まで阿頼耶識研究が行われていたことを告げ、腐り切った宇宙鼠に阿頼耶識を得たアインと秘蔵のモビルスーツで鉄槌を下してやるのだ! とガエリオを煽り立てる――!
場面は鉄華団に移り、団長の指示がなくて動けない年少組と動揺を隠せないアトラに、どう動けばいいかわからないメリビットとアトラの食事を褒めて励ます雪之丞。そして蒔苗氏を送り届けるために、別の航路をとろうと提案するクーデリア。
すっかりお通夜ムードの鉄華団で、それぞれがそれぞれの今できることをなすべく行動する、という本作世界の「正しさ」を再確認。
ひとまず雪之丞のおやっさんが、アトラを気遣うところなどはきちんとした大人ではあるけれど、引き締め役は自分ではなくオルガという割り切りがされているあたりが独特の味を見せて面白かったです。
そしてクーデリアに関しては、スタッフの方も何故彼女がここまで持ち上げられているかに説得力を持たせようとしたのか、蒔苗氏がいやに説明的に根拠を並べてべた褒めするのですが、
「私がなりたいのは、希望。たとえこの手を血に染めても、そこにたった一つ人々の希望が残れば……」
と返し、自分は決して「リーダー」ではないのだ、と示すクーデリア。
本作において、度々示される「家族」は「幸せなことも不幸なことも分かち合える間柄」という位置づけだと思われるのですが、全てを完全に他人に分け与えてしまうと、そこに何も残らないのか? となった時に、唯識論で見ると「何も残らない」はずですが、本作は「何かが残るはず」で、それが「自分自身」「誇り」「希望」と様々な形で呼ばれています。
「自分」を残すために、人に何ができるのか、それは肯定されるべきなのか?
本作が通そうとしている「正しさ」の根源はまさにそれだと思うのですが、話の根幹である「阿頼耶識(唯識の根源)」を始め、細かい設定単位で「正しさが通用しない世界観」を作ることにこだわりが見えていて、すごい。
そして、落ち込むオルガに三日月は語りかける。
「オルガ、次は俺、どうすればいい?」
「勘弁してくれよミカ。俺は……」
「駄目だよオルガ。俺はまだ止まれない」
「待ってろよ」
「教えてくれ、オルガ」
「待てって言ってるだろうが!」
「ここが俺たちの場所なの?」
オルガに対して叩きつけられる三日月の言葉。
「そこに着くまで俺は止まらない。止まれない。決めたんだ。あの日に決まったんだ……ねえ、何人殺せばいい? あと何人殺せばそこへ着ける? 教えてくれオルガ。オルガ・イツカ」
珍しくフルネームで呼ぶなど、いつもの三日月からは想像もできない台詞ですが、ここで思ったのは、少なくとも現時点での三日月はオルガがそんな特別に好きなわけじゃないとまでいかずとも、オルガに父性とか全然感じてないんだろうな、ってこと。
私が住むのが夫婦同姓という概念が基本の日本社会だから思うのかもしれませんが、呼び方に苗字(ファミリーネーム)がつく、というのは「結局、同じ一家ではない赤の他人である」ことの象徴なのだろうと感じます。
オルガは必至でそうあろうと生きてきたのに、ここの三日月は全くそう感じていない。
いつからそうなったのかはわかりませんが、本編中で起こった変化だとして見れば原因として考えられるものが少なくとも二つあり、一つはクーデリアとのキス、もう一つはビスケットの死に崩れるオルガ。
クーデリアとのキスは、先にクーデリアがフミタンの真似をして三日月を抱きしめることでその葛藤を抑えようとしたのですが、三日月はそういう母性とか家族愛で葛藤を越えることができなくて、対等の異性であるクーデリアを求めることでそこから立ち直りました。
この段階でもう、三日月は救いの力や人生の指針として「親」を求めてない。
そこから追い討ちをかけるのがビスケットの死に崩れるオルガの姿で、もはや三日月にとってオルガは「親の代わりになる人間」ではなくなってしまった。だから今の三日月には、オルガが頼れる存在かどうかなんてどうでもよく、鉄華団が立ち上がる力と自分の目指す場所への案内役さえできればいい。
極端な話をしてしまえば、三日月は「誇り」とか「自信」を持ち合わせておらず、かつ今生きている状況では絶対に手に入らないと思っているので、「どこか自分らしく生きられる場所」に「誰かが連れていってくれれば」それが手に入るんだ、と漠然と考えて動いています。
そして「誰か」は「誰でもいい」。
クーデリアに「あんたが俺たちを幸せにしてくれるの?」って問いかけたのもまさにそれで、連れていってくれるのがクーデリアでも別に構わない(下手するとオルガと違って汚れた手を持っていないクーデリアが連れていってくれる方が三日月の望みかもしれない)。
だから、ここで三日月がオルガに言葉を叩きつけているのは、オルガに親であることを望んでいるのではなく、「俺を案内するという約束を果たせ」という激励と同時に呪いの言葉でもある。
その言葉が「呪い」であることを強調しているのが、三日月の言葉が漠然とした「どうすれば」ではなく「誰を殺せば」「何人殺せば」と具体的になってきていることです。
過去に三日月を汚れた手で繋ぎ止めて引っ張ったことで、オルガはそこに義務感や責任を抱えることになってしまった。故に三日月の前では格好いい大人でなければならない、となっているのですが、そこに加えて「三日月が人殺ししかできなくなったのはオルガのせい」という要素を叩きこんできて、恐ろしい方向にオルガを追い込んでいきます。
あの時、血で汚れた手を差し出して「自分達の場所へ行こう」とか呼びかけなかったら、三日月は今まで生きてこれなかったかもしれないけど、逆に全く違う人生歩んで、人殺しと無縁の生活だったのかもしれない。
そんな「もしも」は重ねていくとキリがないのですが、少なくとも「今の三日月」を引っ張ってきたのはあの時のオルガであることに間違いはなくて、今のオルガはそのことを三日月に叩きつけられて苦しむことになっています。
で、三日月は確信してこれをやっているように感じられ、ここからはオルガを「使う」ようになってるのかなと。それは流石にどちらなのかわからないですが、どちらにせよ進む道は変わらないので想像の余地、と見るべきか。
立ち直ったオルガ、鉄華団を全員集め、これはただの戦いではなく、自分たちをつぶそうとするギャラルホルンとの全面戦争であり、ビスケットたち死者への弔い合戦でもあるのだと演説。メリビットはあくまで自分たちの仕事は蒔苗氏の護衛であるはずだ、と主張するも、ギャラルホルンの脅威がある以上はやることは同じだと返す三日月。そんな三日月を、またも不安そうに見つめるアトラ。
「もうよしな。あんたの言ってることは正しいが今こいつらの耳には入りゃしねぇよ」
雪之丞の言葉で、改めて強調される「正しさの通用しない世界」。
クーデリアの提案で、アラスカから鉄道で移動することになり、移動する蒔苗氏は無事たどり着けるのか? となったところで続く。
終盤戦、「生きることへの願いは正しいかもしれないが呪いでもあるんだ」という本作世界の暗黒面が一斉に噴き出し、破滅への序曲が流れ始めました。
そこに至るまでにどうしてそうなるのか、そのあたりの肉付けはしっかりしていて、本作の「劇作における『正しさ』」、セオリーはかなり徹底していると思うのですが、そこで展開されている内容が「劇中で設定された『正しさ』が通用しない世界観」なので、すごくねじれています。
そうなると最終盤で厄介なのが、「劇作としての正しさ」がこのまま追求されたら「作品世界中に存在する正しさ」は確実に敗北すると思われ、逆に「作品世界中に存在する正しさ」を追求しようとしたら「劇作としての正しさ」がどこかで壊される、ということ。
どちらが勝利しても納得できるように作られていると思いますが、せっかく「作中世界に存在する正しさ」があるのならば、そちらを勝たせる展開だったりすると好みなのですが、さあどうなるか。
まあ私の場合、突拍子のない結末が飛び出しても伝家の宝刀「金元寿子だから仕方がない」を繰り出して叩き切れてしまうので、あまり公平に作品を見れてないと我ながら思いますけど(^^;
「昌弘とフミタンとビスケットが生き返る」までのトンデモなら、赦します!